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 こんな風に、代助は空虚なるわが心の一角を抱(いだ)いて今日(こんにち)に至った。いま先方(さきがた)門野を呼んで括(くく)り枕(まくら)を取り寄せて、午寐(ひるね)を貪(むさ)ぼった時は、あまりに潑溂(はつらつ)たる宇宙の刺激に堪えなくなった頭を、出来るならば、蒼(あお)い色の付いた、深い水の中に沈めたい位に思った。それほど彼は命を鋭く感じ過ぎた。従って熱い頭を枕へ着けた時は、平岡も三千代も、彼に取って殆(ほと)んど存在していなかった。彼は幸(さいわい)にして涼しい心持に寐た。けれどもその穏やかな眠(ねむり)のうちに、誰かすうと来て、またすうと出て行ったような心持がした。眼を醒(さ)まして起き上がってもその感じがまだ残っていて、頭から拭(ぬぐ)い去る事が出来なかった。それで門野を呼んで、寐ている間(あいだ)に誰か来はしないかと聞いたのである。

 代助は両手を額(ひたい)に当てて、高い空を面白そうに切って廻(まわ)る燕(つばめ)の運動を縁側から眺めていたが、やがて、それが眼(め)ま苦(ぐる)しくなったので、室(へや)の中に這入(はい)った。けれども、三千代がまた訪ねて来るという目前の予期が、既に気分の平調を冒しているので、思索も読書も殆んど手に着かなかった。代助はしまいに本棚の中から、大きな画帖(がじょう)を出して来て、膝(ひざ)の上に広げて、繰り始めた。けれども、それも、ただ指の先で順々に開けて行くだけであった。一つ画(え)を半分とは味わっていられなかった。やがてブランギンの所へ来た。代助は平生(へいぜい)からこの装飾画家に多大の趣味を有(も)っていた。彼の眼は常の如く輝(かがやき)を帯びて、一度(ひとたび)はその上に落ちた。それはどこかの港の図であった。背景に船と檣(ほばしら)と帆を大きく描(か)いて、その余った所に、際立(きわだ)って花やかな空の雲と、蒼黒(あおぐろ)い水の色をあらわした前に、裸体の労働者が四、五人いた。代助はこれらの男性の、山の如くに怒(いか)らした筋肉の張り具合や、彼らの肩から脊(せ)へかけて、肉塊と肉塊が落ち合って、その間に渦のような谷を作っている模様を見て、其所(そこ)にしばらく肉の力の快感を認めたが、やがて、画帖を開けたまま、眼を放して耳を立てた。すると勝手の方で婆(ばあ)さんの声がした。それから牛乳配達が空罎(あきびん)を鳴らして急ぎ足に出て行った。宅(うち)のうちが静かなので、鋭どい代助の聴神経には善く応(こた)えた。

 代助はぼんやり壁を見詰めてい…

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