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徳之島の被爆者:2

 「昨日のことも覚えていないのに、70年前のあの時のことは忘れられない」。鹿児島県・奄美群島の一つ、徳之島の伊仙町に住む清原すみ子(きよはらすみこ)さん(88)に被爆当時のことを尋ねると、何度もこう話した。

 10人きょうだいの次女として生まれた清原さんは、大島女子挺身(ていしん)隊として長崎へ1940年代に渡った。奄美群島では戦時中、男性の徴兵による労働力不足を補うため、推定で約1200人の女性が挺身隊として長崎に渡った。このうち約200人が原爆で死亡、奄美に帰った人は約500人とされる。

 清原さんは徳之島の犬田布(いぬたぶ)尋常高等小学校を卒業後、奄美大島に渡り、特産品の大島紬(つむぎ)を織る仕事を親方の家に住み込んでしていた。だが、大島紬はぜいたく品として政府から禁止されて廃業し、徳之島に戻った。

 島に戻ってからは、男性が出征する時には地域の集会所に集まり、「勝ってくるぞと勇ましく」と軍歌を歌い、万歳をして送り出した。ある日、清原さんも女子挺身隊として長崎へ行くよう命じられた。

 清原さんは、「嫌だ」という感情は起こらず、「運命だ」と思った。学校で軍国教育を受けたため、「お国のために行くのは当たり前。もう帰ってこられない」と思った。

 だが、父の貞栄(さだえい)さんは「行ってはだめだ。自分が役場に行って交渉してくる」と言い出した。清原さんは「そんなことをしたら罰を受ける」と貞栄さんを止めた。

 清原さんは奄美大島の名瀬港から定期船「金十丸」に乗った。出征する兵士が先に乗り、次が女子挺身隊、最後が一般客という順番だった。鹿児島まで船で行き、その後は汽車に乗って長崎へ向かった。

 長崎では三菱長崎造船所飽の浦工場に配属された。船などの部品を旋盤で削る仕事を任された。肉体労働だったが、徳之島でも農業で体を動かしていたため、つらさは感じなかった。寮に戻れば、徳之島や奄美大島から来ている女子挺身隊の人がいた。寂しさは感じなかった。

 45年8月9日、清原さんは前日が夜勤で午前6時まで働き、原爆投下時は長崎市本石灰町にあった寮の1階で寝ていた。寮の30畳ほどの部屋の西側で寝ていたが、東側の障子ガラスが風で突き抜け、ガラスが降ってきて目が覚めた。跳び起きて寮内を探したが、誰もいなかった。

 非常用のかばんを肩にかけ、防火用に風呂場にためてあった水に防空ずきんを浸してかぶり、田上の竹山に向かった。竹山は緊急時の避難場所に決められていたからだ。到着すると、すでに寮の人たちや寮長ら30人ほどが集まっていた。竹山の上からは町を見下ろすことができた。町は火に包まれていた。

 竹山に集まった人に聞くと、清…

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