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 沖縄は米軍基地と隣り合わせの歩みを強いられ、事件や事故が絶えなかった。今も全国の0・6%の面積に73・7%の米軍専用施設が集中する。1972年5月15日の本土復帰から43年。沖縄県公文書館の所蔵写真と証言を通じて、「基地の島」の戦後をたどった。

1959年 米軍機墜落

 「体格からすると小学生でしょうか」。沖縄県沖縄市の稲福晃さん(63)は、ベッドに横たわる子どもの写真を見て、母校を思い出した。

 59年6月30日。石川市(現うるま市)の宮森小学校に米軍のジェット戦闘機が墜落し、児童ら17人が亡くなった。当時2年生。真っ黒に焼けてうずくまる子、児童を抱きかかえて絶叫する教員もいた。

 2004年には宜野湾市の沖縄国際大に、13年には宜野座村の米軍基地内にそれぞれ米軍ヘリが墜落した。「今もいつ事故が起きてもおかしくない」。宮森小の教員や児童だった人たちは、事故を語り継ぐ活動を続ける。

68年 原潜が寄港

 沖縄に米軍の原子力潜水艦が寄港するようになった68年、放射能漏れなどへの懸念から琉球政府が水質調査を始めた。

 寄港先の米軍基地「ホワイトビーチ」がある勝連(かつれん)町(現うるま市)の元町議、富山(とみやま)光枝さん(73)は「町が独自に汚染を調べるべきだ」と訴えた1人だ。一方で特産のモズクへの風評被害を考えると、危険だと叫ぶのもためらわれた。

 県によると、原子力艦の寄港は14年までの47年間で計559回。最多の41回だった08年は、微量だが放射能漏れが発覚した。富山さんは「米軍の壁の向こうに何が隠されているのか」と危ぶむ。今月の寄港では、調査結果に異状はなかったという。

70年 米兵の犯罪

 70年5月30日の白昼、米兵が女子高校生をサトウキビ畑へ引きずり込んだ。抵抗を受けると、女子高校生の頭や腹など数カ所を刺して重傷を負わせ、具志川市(現うるま市)にあった米陸軍通信隊の基地内に逃げ込んだ。

 被害者は、今もうるま市に暮らす男性の身内だった。男性や住民は基地を取り囲み、米兵を出すよう求めた。フェンスの内側から、他の米兵が笑みを浮かべてこちらを見ていた。各地で抗議大会が相次いだ。

 米軍の軍事法廷の判決は懲役3年。想定外の軽さに男性は悔し涙を流した。基地は74年になくなった。「地元では事件はないですよ」と男性。だが、95年の少女暴行事件など、沖縄で米兵の犯罪が起きるたび苦い思いがよみがえる。

72年 爆撃機が出撃

 「殺し屋は出ていけ」「二度と来るな」。72年10月28日、嘉手納村(現嘉手納町)。米空軍嘉手納基地の前で、村民たちが次々に声を上げた。同年5月の沖縄の本土復帰後初めて、戦略爆撃機B52が大挙して飛来。100機以上が翼を並べた。

 翌日、抗議する県民大会があった。元県教職員組合委員長の石川元平さん(77)は「B52は『加害』の象徴。沖縄は戦争をするアメリカの足元にあった」。ベトナム戦争中、嘉手納はB52の出撃拠点だった。

 台風からの避難を理由にグアムから飛来し、そのままベトナムの爆撃に参加したのは65年7月。琉球政府立法院(議会)は出撃中止を求める決議をしたが、常駐が始まった。

 今も沖縄から戦場に向かう米兵がいる。石川さんは思う。「戦争と隣り合わせ。変わっていない」