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 東京・表参道。流行の発信地として知られるこの付近は70年前の5月25日、2万人以上が死傷した「山の手大空襲」で、一夜にして焼け野原になった。当時多くの人が逃げ込んだ書店は、その記憶を絶やすまいと、いまも街角に立つ。

 1891年創業の「山陽堂書店」。表参道と青山通りの交差点にあり、4代目の遠山秀子さん(55)が営む。20平方メートルほどの1階には、女性誌や旅行ガイド本のほか、「表参道が燃えた日」など空襲関連の本が並ぶ。2階では6月5日まで、戦前や戦中の周辺の写真などを展示している。

 書店は空襲の夜も、今と同じ場所にあった。北西に明治神宮、東に青山霊園。安全とされた2カ所の間だ。逃げ惑う人たちが店の前を往来し、住居を兼ねた鉄筋3階建ての書店に、多くの人が逃げ込んだ。

 遠山さんの伯母で、当日の店番だった清水浜子さん(92)は1階にいた。焼夷(しょうい)弾の音が聞こえる。得意先から預かった品々を守ろうと、父や弟と、地下室につながる入り口を街路樹の土で固めた。

 それが逃げ遅れにつながる。霊園に行こうと外へ出たが、煙で前が見えない。熱風や火の粉が、目元までかぶった防空頭巾の隙間から入り込んでくる。手をつないでいた父とは、いつの間にかはぐれていた。

 なんとか隣の染物屋に入った。直後に「バリバリ」。裏手に炎が見える。ここもすぐ焼ける。逃げなくちゃ。その場にいたお年寄りの女性2人に声をかけた。「私たちはもう、いいから」。何もできず、外へ出た。

 何も見えない。立ちすくむ。死ぬんだ。せめて家に帰って死のう。だが、店に入ろうとすると「いっぱいだ」と断られた。「私のうちだから」。声を荒らげ、鉄のドアを開ける。100人ほどが肩を寄せ合っていた。

 商品の雑誌を踏み、台をつたって2階へ。父も弟もそこにいた。窓から外を見る。「火の玉」が転げ回っていた。そばには布が見える。人、だった。1階からはうなるような「水、水」の声。地下室の井戸から何度もくみ上げられた。

 翌朝。向かいの銀行の前に、2~3メートルほど遺体が積み上げられていた。スコップでトラックに乗せられていく。言葉にできるのは「私は生きてる」。それだけだった――。

 65歳まで店で働き、今は西東京市に暮らす。「もっと詰めましょうと、あのとき誰かが言えれば」と悔やむ。5年前から視界がゆがむ。空襲の記憶もぽつぽつと抜け落ちていく。それでも、8月15日の空が晴れ渡っていたことを覚えている。ラジオで聞いた終戦の報には、悔しさよりも安堵(あんど)の気持ちを強く感じたことも。「生きてこられて幸せ」。不戦を貫いてきた日本を「ありがたい」と思う。

 光さす マットの上で 目を閉…

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