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 殺人など重大な刑事事件の一審の裁判に市民から選ばれた裁判員が加わる裁判員制度が始まって6年がたちました。今年4月末までに審理に参加したのは、約5万9千人です。経験者たちは何を感じ、その経験はそれぞれの生活や人生にどんな影響を与えたのでしょうか。だれもが裁判員になりうる時代――彼らの物語を紡いでいきます。(編集委員・大久保真紀

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第1章:1

 今年2月、名古屋市内で裁判員経験者の交流会があった。

 集まったのは5人。そのうちのひとり、東京都在住の歯科医師古平衣美(こだいら・えみ)さん(42)は「私はやらなきゃよかったと悩んだタイプ。いろんな人の意見を聞きたいと思って」と参加の理由を語った。

 「裁判員制度は悩み苦しむ人ばかりを増やして何の得にもならない制度。意味あるのだろうか」。そう感じた古平さんの裁判員経験は、2010年。始まりは突然だった。

 ピンポーン! 呼び鈴が鳴った。ドアを開けると、郵便配達員だった。

 「とうとう私も訴えられたんだ……」

 「裁判所」と書かれた茶封筒を手渡され、身を硬くした。10年3月。当時は育児休業中だったが、大学病院に所属していた。歯科医が医療事故で訴えられたというニュースを耳にしたばかりだったのだ。

 ドキドキしながら封を開ると、「裁判員等選任手続期日のお知らせ(呼出状)」の文字。約3カ月先に予定されている刑事裁判の裁判員候補になったことを告げる内容だった。正直ホッとした。裁判所までの交通費などを尋ねる質問票に記入し、ほとんど何も考えずに送り返した。

 古平さんは埼玉県生まれの埼玉県育ち。歯科医院を開業する父の姿をみて、ふつうに自分も歯科医になる道を選んだ。裁判所からの呼び出し状は、結婚、出産を経て、1男1女の母になってそろそろ仕事に復帰しようと考えているときだった。

 このときはまだ、裁判員はひとごとだった。「自分が(裁判員に)あたるわけはない」と思っていた。

 指定された5月末のある朝。東京・霞が関にある東京地方裁判所に向かった。失礼がないようにと白いブラウスに紺色のスカートとジャケットを着た。「行かないと罰せられるかも。とりあえず行ってみよう」。そんな気持ちだった。

 地下鉄の駅を出ると、東京地裁の前は騒がしかった。反捕鯨団体シー・シェパードの元船長が威力業務妨害などの罪で起訴された事件の裁判があるらしい。マイクで大声を出している人、ビラを配る人、周囲には多くの報道機関の人たちもいた。「ここって、テレビで見るところ?」。キョロキョロしながら生まれて初めて、裁判所の門をくぐった。

 建物の入り口は長蛇の列だった。金属探知機で身体検査、持ち物検査が行われていた。「空港みたい」。何もかもが初めての体験だった。

 誘導されて2階の部屋へ。結構広かった。いくつもの机が並び、奥にはプランターや自動販売機もあった。会場には自分と同じ候補者が数十人来ていた。ロマンスグレーのダンディーな男性、サンダル姿の若者、チェーンをじゃらじゃらつけたロック歌手風の人……。本当にいろんな人がいるのに驚いた。自分の番号があった3列目の席に座った。

 部屋には職員が何人も待機していた。「なんでこんなに監視の人が立っているのだろう」。いま思えば、だれが来たのかをチェックしていたのかもしれない。でも、そのときは、不思議に感じただけだった。

 被告人の名前と対象が殺人未遂事件であることが告げられた。命が奪われた事件でないことに安堵(あんど)した。被告人を知っている人、事件にかかわっている可能性がある人は申し出るように言われた。

 しばらくして、コンピューターで選んだ番号が電光掲示板で発表された。裁判員は6人、補充が2人で計8人が選ばれる。

 1番目、2番目……。

 「えっ? ウソでしょ!」。4番目に発表されたのは、自分の番号だった。何度も見直したが、間違いなかった。

 「これからどうなるのだろう」。不安が募った。