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第1章:2

 裁判員に選ばれた古平衣美さん(42)は、すぐに母親に電話をした。選任されてしまった以上、公判が午後から始まるこの日は、小学校に上がったばかりの長女が帰宅する時刻には自宅に帰れない。

 電話口の母親は「やっぱり」と言った。「あなたはくじ運強いからね」と。そういえば、町内のくじ引きではディズニーランドの券を当てたし、スーパーでは食事券をもらったこともあったな……。こんなところであたらなくてもと思ったが、娘の世話を母親に頼むことができて、少し落ち着いた。

 選ばれたのは古平さんを含めた女性6人と男性2人。それぞれ「明日のゴルフはキャンセルだ」「明後日までお休みです」など、携帯電話で外部と連絡をとっていた。

 裁判員は裁判長にならって、番号でお互いを呼び合った。古平さんは、「4番」さん。名前も職業も知らないまま、3日間を過ごすことになった。

 担当する事件は、40代の男性が万引きした包丁で、見知らぬ女性を背中から刺した、という無差別殺人未遂事件。被告は自らの犯行をマスコミに予告もしていたという。

 どんな極悪人が出てくるのだろう。

 古平さんは、自分の中で、「犯人」のイメージを膨らませていた。古平さんにとっては「犯罪」は、「悪」であり、「犯人」は「悪者」以外の何者でもなかった。

 午後、公判が始まった。

 目の前にいる被告は、手錠に腰縄をかけられていた。まずその姿に「犬みたいに扱われている」とショックを受けた。さらに驚いたのが、その風貌。小柄で、ちょっと猫背の男性だった。

 どこにでもいそうな「ふつうのおじさん」だったことが衝撃だった。

 「こんなふつうの人があんな事件を起こすの?」

 事件や裁判は自分には関係ない、別世界のことだと思っていた感覚が崩れていった。犯罪は身近な世界で、だれの身にも起こることなのだ、と感じた。新しい発見だった。

 次の瞬間。入廷した被告の男性を前に、裁判官が名前を確かめると、男性が急に声を上げた。

 「僕は違う! 僕の名前は……」

 古平さんの耳には、日本人ではないような名前に聞こえた。

 「えっ、どういうこと?」

 起訴状に書かれた名前は自分ではないという主張だった。不測の事態に法廷は騒然とした。動揺と混乱の空気が流れた。すぐに休廷になった。

 しばらくして再開したものの、進行をめぐって、法廷に専門用語が飛び交い、やりとりは正直よくわからなかった。公判はそのまま続行され、検察側、弁護側の冒頭陳述が行われた。

 流れについていくのに必死だった。聞き逃さないようにと、耳に神経を集中させた。

 長い1日だった。

 夕方、裁判所を出ると、疲れがどっと出てきた。

 それでも、帰りの電車の中で、妙に頭がさえているのを感じた。(編集委員・大久保真紀