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第1章:3

 初日の午後、公判が始まる前に、裁判員に選ばれた古平衣美さん(42)は、ほかの7人と一緒に法廷に案内された。

 生まれて初めての法廷。傍聴席側から入り、階段をのぼって、正面の一段高い席へ。そこが、これから3日間、裁判官と並んで裁判員が座る席だと説明された。

 古平さんはその高さに違和感をもった。「資格があるわけでない。プロでもない。主婦の私がこんな高いところに座っていいのだろうか。見下ろす形になる。なんかいやだな」。素朴な思いだった。

 午後、公判が始まった。

 今度は、法廷の裏側から入廷した。黒い法衣を着た3人の裁判官を挟む形で6人の裁判員も法壇に座った。向かって左に検察官、右に弁護人と被告人。奥には十数人の傍聴人がこちらを見て座っていた。

 関係者がそろった廷内を見渡すと、新たな思いが去来した。「一段高い位置は、物事を公平に見る、両方を見通すためのものなのかもしれない」

 午前中には考えもしなかったことだ。「だからこそ、両方を客観的に見て、ちゃんとやらなくては。中途半端な気持ちではダメだ」。襟を正される思いだった。

 事件は、男性がマスコミに無差別殺人を予告した上で、万引きした包丁を使って見ず知らずの女性を背中から刺したというもの。犯行場所は予告したところとは違うところだった。幸い急所を外れ、被害者の命は奪われずに済んでいた。男性が女性の背中を刺し、けがをさせたという事実関係は、検察側、弁護側双方に争いはない。

 しかし、審理の中で明らかになった被告の生育歴が、古平さんには気になった。男性は窃盗を繰り返し、少年院を出たり入ったりした過去があった。

 虐待を受けて育っており、両親はいま行方不明。情状証人はだれもいなかった。精神科にかかって薬ももらっていた。

 「少年院を出たり入ったりする中で、違う出会いがあれば、この人は人を刺すまでにはいかなかったんじゃないだろうか」。そんな思いをもった。

 事件を起こしたときの男性の所持金は数十円。そんな状態なら人に八つ当たりしたいという気分になるのもわからないではない。もしこのときに1千円もっていたら、状況は違っていたかもしれない。もちろん男性のやったことは犯罪であり、許されない行為だ。しかし、親や社会、環境の問題もあるのではないか。この男性だけの責任ではないのではないだろうか。

 そんな考えが頭の中を駆け巡った。

 「働かざる者、食うべからず」。それが、古平さんの持論だった。

 しかし、裁判を通して、自分ではどうすることもできない劣悪な環境で育つ人がいる現実があることに、気づかされた。(編集委員・大久保真紀