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前田稔さん(1935年生まれ)

 米国が原爆の研究・製造を進めた「マンハッタン計画」。長崎市香焼町の前田稔(まえだみのる)さん(80)は被爆70年の今年、10年前にまとめた計画に関するリポートを書き直している。

 計画に関心を持ったのは、高校の英語教諭を辞めて米国の大学院に留学した25年ほど前。米国では自身が被爆者だと周囲に語っていなかったが、計画に携わった研究者の論文を読み、原爆投下を負の歴史として語り継いでいかなければと思うようになった。

 爆心地から約4キロの長崎市東立神町で被爆し、終戦後は米軍の上陸におびえ、一時長崎を離れた。それほど米国は恐ろしかった。しかし、進駐してきた米兵たちは優しくて明るく、敵意や恐怖はあっという間に消えた。54歳で留学のため初めて踏んだ米国の地でも米国人は親切で、強い博愛精神に触れた。そんな米国が、原爆投下という歴史的に悲惨な結果を引き起こした。なぜそんなことができたのか。愛する国だからこそ探り続けてきた。

 前田さんは三菱造船所立神工場で船室の家具などを作る木工部門で働く父鹿造(しかぞう)さんと、母トメさんの7番目の子どもとして生まれた。後に妹ができた。16歳差の長姉や15歳差の長兄とは一緒に暮らした記憶はない。

 家は造船所のおひざ元にあり、近所の家はほとんどが造船所に関係していた。小料理屋や仕立屋、棺おけ屋、アイスキャンディー工場までなんでもあった。鉄をたたいて曲げたり、鉄板と鉄板をびょうで打ち付けたりする音が一日中あふれ、巨大な鍛冶(かじ)屋の中に暮らしているようだったという。

 戦争が始まり、造船所の船台が巨大な網状のカーテンで覆われたことがある。鹿造さんに「空母なの? 潜水艦なの?」と聞いても答えてくれず、「秘密なんだ」と思った記憶がある。しかし、市営交通船の船着き場から見上げると網の中の様子がわかり、近所の人たちは巨大な軍艦が造られているのを知っていた。それは、1942年に完成した当時世界最大級の戦艦「武蔵」だった。

 41年、前田さんは立神国民学校に入学した。尋常高等小学校から国民学校に名前が変わった年で、教育内容は皇国史観がより強まり、子どもたちは「少国民」と呼ばれるようになった。前田さんも体育の時間に腕立て伏せをさせられ、整列で姿勢が崩れると木剣で突かれた。防空壕(ごう)掘りや軍事教練もあり、天皇の写真を納めた奉安殿の前を通る時は必ず最敬礼した。近所ではバケツリレーなど防火訓練も始まった。三菱造船所立神工場では、収容所から通う英国人捕虜を見かけるようになった。罵声を浴びせられてもまっすぐ隊列を組んで歩く姿が印象的だった。

 そんな中でも、父鹿造さんは風流を大切にしていた。華道の名取で、野山に花を取りに行って生けていた。おしゃれで、モヘアのオーバーを着たり、カンカン帽をかぶったりしていた。戦時体制が強まる中でも美しいものを愛し続けた父は、戦争のばかばかしさを感じ取り、異常な時代を自分らしく乗り切ろうとしていたのではないか、と今は思う。

 44年、長崎市は初めて空襲を受けた。45年4月には、出島岸壁や長崎駅などに爆弾が落とされ、120人以上が亡くなった。前田さんの自宅裏に住んでいた男子学生も市営交通船で帰宅途中に犠牲になった。

 前田さんが初めて身の危険を感じたのは45年8月1日の空襲だった。原爆投下まで市内であった5回の空襲の中でも最大規模で、三菱造船所などが標的になった。母と2人で自宅の座敷にいた午前11時過ぎ、キーンと飛行機が旋回する音がし、バーッと機銃掃射が続いた。とっさに母が綿入れをしていた布団に飛び込んだ。静かになって布団から首を出すと、3メートルほど離れた便所の外につり下げられていた手洗い用タンクに命中し、周囲は水浸しになっていた。かろうじて命拾いしていた。

 3番目の兄は長崎経済専門学校(現長崎大経済学部)に在学し、三菱兵器製作所で魚雷製造に動員されていた。しかし、戦況悪化を憂えて8月6日、福岡県久留米市の陸軍予備士官学校に志願して長崎を離れた。

 45年8月9日、前田さんは爆心地から約4キロの長崎市東立神町の自宅に母トメさんといた。ふと立ち上がった時に、辺り一面がフラッシュをたいたようにバーッと光って真っ白になった。驚いた瞬間にドーンとごう音と爆風が起き、粉々になった窓ガラスが家に飛びこんできた。入り口の土間に身を伏せると、母が上に覆いかぶさってきた。

 静かになると、すぐに防空壕(ごう)に向かった。自宅の背後には山が迫っていたこともあり、前田さんと母は熱線を直接浴びず、けがもなかった。しかし、造船所近くの海で泳いでいた子どもたちは熱線を浴びた。海から上がった子どもたちは皮膚が溶けたようになり、焼けただれていた。薬がなく、葉っぱやアロエをくっつけたり、古い布で傷をおおったりするぐらいの手当てしかできていなかった。

 向こうの空を見ると、どす黒く、赤いキノコ状の雲が立ち上がっていた。その異様な姿は、経験したことのない恐ろしさを感じさせた。この世の終わりを見たと思った。

 前田さんは終戦の玉音放送を、自宅のラジオの前に正座をして聞いた。戦争に負けたことがわかった時、自分の人生は終わったと覚悟した。米軍が上陸すれば、家は焼かれて、殺されるだろう。しかし、死の恐怖はなかった。

 自宅には中国や旧満州(中国東北部)での日本軍の勝利をまとめたビロード張りの豪華な写真集があった。それを見て、戦争に負けた国の国民が死ぬのは当然だと思っていた。両親も、米軍は日本人に対して残虐なことをするに違いないと考えていたようだ。

 終戦から数日後、前田さんと母、四つ年下の妹は父の実家の諫早市まで逃げることになった。出発前、自宅に残る父や兄たちと水杯(みずさかずき)を交わした。誰もがもう二度と会えないことを覚悟していた。

 リヤカーに衣類や布団などを積…

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