【動画】被爆70年アンケート、山口郁子さんの証言
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神奈川県鎌倉市(長崎) 山口郁子さん(75) 5歳

 両親と3歳の妹、1歳の弟、叔母の6人で暮らしていました。70年前のあの日、父は三菱重工長崎造船所に勤めに出て、母は近くの郵便局へ。叔母と私たち3人で留守番をしていました。

 庭が「ピカーッ」と光ったため、転がり込むように床下の防空壕(ごう)に飛び込みました。「ゴーッ」という台風のような音も聞こえました。縁側と玄関のガラスは粉々に飛び散りました。

 数日後、自宅近くの長崎高等商業学校(現・長崎大経済学部)を通りかかったとき、異様な臭いがしました。遺体を焼く臭い。グラウンドのあちこちに、小山のように積み上げられていました。

 戦後の食卓は貧しかったですね。それでも母は人をもてなすのが好きだったから、色々と工夫をしてくれました。中身がサツマイモの「クリスマスケーキ」を焼いてくれたことも。「おから団子」もおいしかったな。つらい思い出の中に、母(故人)への感謝の思いがあります。3人の孫娘たちに、夏休みにでも食べさせたい。

 夫との結婚を機に名古屋に引っ越しました。ある時、病院で被爆者健康手帳を見せました。居合わせた知人から「それは何ですか」と聞かれ、被爆者だから医療費の自己負担分がなくなると説明しました。

 翌日、「『ただになるのと白血病になるのどっちがいいか』と主人が言ってた」と言われました。普通、そんなこと言いますか。長崎から来たこと、被爆したことは隠そうともせずに生きてきました。悲しく、怒りがこみ上げてきました。私個人じゃなく、被爆者全体に向けられた言葉だと思いました。

 私には息子が3人。次男は5歳の時、骨肉腫で亡くなりました。幼稚園から帰ってきて制服を脱がそうとしたら、ある日左腕が腫れていました。いつまで経っても腫れが引かない。名古屋の病院に入院し、「骨に腫瘍(しゅよう)ができている」と。それが71年冬。最後はがんが肺に転移し、心臓も圧迫してしまって。退院して家で過ごしていたけど、歩いて病院に行く体力もなくなりました。

 亡くなったのは71年4月13日。今も桜を見ると悲しくなります。次男は3兄弟の中で一番ふざけるのが好きで明るい子。いつも家の中を走り回っていて、闘病中もよく歌を歌って。生まれたばかりの弟のことが大好きでした。

 いつも泣いてばかりの私に、まだ幼かった長男が「お母さん、僕がいるから泣かないで」って言ってくれました。「いつまでもくよくよできない」。少しずつ外に出るようになりました。でも「私の被爆のせいで次男は亡くなったのか」という思いは40年以上たっても変わりません。

 夫の転勤で米国のロサンゼルス郊外に約8年間住んだことがあります。(太平洋戦争が始まった)12月8日のこと。「学校で国旗を揚げた時、みんなに向けられた視線が厳しかった」って長男が言ったことがありました。

 米国ではパールハーバー(真珠湾攻撃)の日。学校の友達から「原爆を落としたことで戦争が終わった。良いことなんだ」って言われるって。私は「どっちが良いとか悪いじゃない。戦争そのものが悪いの」と伝えました。一方で、「核兵器は一瞬でたくさんの人を殺す。絶対によくない」と教えたはずです。

 米国にも色々な人がいます。私はクリスチャンだから教会に通っていたけど、教会の人たちはみんな私の体験を聞いてくれた。「原爆投下は過ちだ」と。伝わる人には伝わります。

 核は未知のことが多すぎる。解明されない限り、100%安全でない限り、動かしちゃいけない。核兵器を持つことに「正論」なんかない。良い戦争、悪い戦争なんてないでしょう。あの遺体を焼く臭いをかいでみてください。人の体が焼かれる臭い。自衛隊を海外に出せば、また戦争になります。その恐怖でいっぱいです。(聞き手・根津弥)

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