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 父、菊池武文の表情がみるみる険しくなった。

 台北(たいほく)工の野球部監督、岡本彰は「いかなる事故があっても学校には責任がない」とする1枚の紙を差し出した。頭を下げる岡本の両隣に、武文の長男武男と次男文男(89)がいた。5年生の武男は主将でエース、3年生の文男は外野の控えだった。

 「2人に万が一のことがあったら困る。事故で失うことにでもなれば、我が家は途絶える。承諾書には署名と捺印(なついん)はできません」。武文は拒んだ。

 1942年7月、台北工は台湾大会を制覇し、8月下旬に始まる全国大会への切符を得た。前年は、夏の甲子園はなかった。この年は甲子園で開かれたが、文部省と大日本学徒体育振興会が主催した。「夏の甲子園」の回数には数えられず、後年「幻の甲子園大会」と呼ばれた。外地から唯一の参加だった。

 台湾生まれの武男と文男にとって内地は初めて。しかも、あこがれの甲子園。胸が高鳴った。だが、すでに戦況は悪化し、台湾近海に米潜水艦が出没。甲子園への海路は命がけ。学校は出場選手14人の保護者に承諾書を求めた。

 「甲子園で野球をやりたい」「みんなに迷惑をかける」。泣いて懇願する2人に父は根負けした。武男にスパイクを新調し、送り出した。ユニホームにローマ字は禁止。胸の「HOKUKO」を「北工」に変え、主催者の指示で更にその前に小さく「台」を入れた。

ジグザグに航行する船

 台湾最北の基隆港から大阪商船の高千穂丸(約8200トン)で出航。3泊4日。魚雷攻撃に備え、船はジグザグに航行した。不必要に甲板に出ることは許されず、救命胴衣を身につけて甲板へ駆け上がる避難訓練も毎日あった。

 8月24日、昼下がりの甲子園は、通路や階段まで人があふれた。初戦の相手は優勝候補、和歌山の海草中(現・向陽)だ。台北工は一回、武男の適時打で1点先取。武男は投球もさえ、シュートと直球が低く決まった。

 延長十回表に1点勝ち越し。だがその裏、優勝候補の予想外の劣勢にスタンドはどよめき、武男は緊張で投げられなくなった。監督の指示でマウンドにひざまずき、静まるのを待った。他の選手も浮足立った。野手が3失策し、2―3でサヨナラ負け。甲子園に棲(す)むといわれる魔物を垣間見た気がした。

 帰途の船上、ボートにしがみついて漂流する5、6人の海軍兵を文男は見た。ボートは船のウィンチで救助された。同乗の憲兵が「いま見たことは口外するな」とすごんだ。

届いていた遺書

 武男は43年3月に卒業。いったん台湾の水産会社に就職後、広島の陸軍兵器学校を出た。45年3月、長崎の大村海軍航空隊に配属された文男を、沖縄行きが決まって鹿児島で待機していた武男が訪ねてきた。

 「沖縄に行くことになった。なぁ文男、たばこ持ってないか」「兄さん、たばこ吸うんだ?」「うん」

 これが最後だった。数日後、武男の乗った沖縄行きの輸送船はトカラ列島の悪石島付近で撃沈された。文男は長崎・諫早で終戦を迎えた。

 「武男死すとも良く立派なと喜んで下さい」。武男の遺書が台湾の父母に届いていたことを、文男は戦後になって知った。いま大分県中津市で妻と暮らす文男は、その遺書を大切に持っている。

 武男のほか、1番で左翼手の藤吉善吉、9番で遊撃手の柳沢伸保が戦死。岡本監督も2歳の長女を気に掛けながら、南方のティモール島で戦病死した。

 文男は「まじめで几帳面(きちょうめん)な兄を慕っていました。怖さ半分、うれしさ半分で海を渡って甲子園に出ました。兄はよく頑張ったと思います」と語った。=敬称略(神元敦司)

     ◇

 〈外地の野球〉 戦前、日本の統治下にあった台湾や朝鮮、日本の傀儡(かいらい)政権下にあった旧満州(中国東北地方)でも野球は盛んだった。社会人チームや中等学校野球部が結成され、大会も開かれるようになった。夏の大会には旧満州と朝鮮が1921年の第7回から、台湾は23年の第9回から参加。第12回(26年)の大連商(旧満州代表)と、第17回(31年)の嘉義農林(嘉農、台湾代表)がいずれも決勝に進み準優勝した。松山商元監督で当時の嘉農を率いた近藤兵太郎らを描いた映画「KANO」が今年、日本でも公開された。

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