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 戦争で途絶えた夏の大会が復活し、全国大会の開会式が開かれた1946年8月15日。かつてその場所を目指した元球児の死刑囚は、獄中で日記に「既に生の圏外にあるが如(ごと)き今の我」と記した。

 野付牛(のつけうし)中(北海道、現・北見北斗)のエースだった平手(ひらて)嘉一(かいち)。元陸軍大尉でB級戦犯として、捕虜虐待などの罪で絞首刑を宣告されていた。

 平手はエースで4番打者だった33年、北海道大会東部予選を勝ち抜き、甲子園行きをかけた道大会初戦で旭川中(現・旭川東)と対戦した。相手エースは、後にプロで303勝するビクトル・スタルヒン。平手は被安打6と健闘したが味方はノーヒットノーランを喫して敗れた。

 進学した大阪外国語学校(現・大阪大)でも、野球を続けた。陸軍予備士官学校に入った40年、友への手紙に「兵隊にまでなって、(野球を)二、三回やった。白いユニホームにスパイクの感触、若い溢(あふ)れる様なファイトが恋しい」と記している。

捕虜収容所で起きた事件

 地元の第7師団に所属していた時、肺を患って療養。師団の部隊は43年5月29日にアッツ島で全滅し、「玉砕」という言葉が初めて使われたが、平手はそこにはいなかった。病歴の影響か、前年の11月に函館第一俘虜(ふりょ)収容所室蘭分所の所長の任を受けていた。

 民間人を含む18人ほどで対処する捕虜は、約150人。平手は訪れた友に「言うことを聞いてくれない部下がいる」と漏らした。

 戦後、平手が問われたのは「多数の捕虜を殴打した」など33の罪。所内で窃盗を犯し営倉の懲罰中に体調を崩し、病院で死亡した英国人捕虜の事件が焦点だった。46年1月14日、横浜軍事法廷で裁判が始まり、米軍の検察官は「平手が故意に虐待し、殴打し、飢えさせて死なせた」と主張。米国人弁護士は「搬送の遅れは落ち度だが、虐待はない」と訴えた。虐待を否定する証言も出たが、11日後、判決は絞首刑とされた。米軍の任務で平手の通訳をした日系2世の通訳官は後に「戦犯裁判は公正であり得るのか」と書いた。

 北見北斗野球部OBの渡辺和勇(かずお)(82)は旧制中1年の同年1月末、体育館に全校生徒が集められ「平手先輩を救おう」との呼びかけがあったのを覚えている。学生が手分けして署名に回り、友人が街で訴えた。

 「生まれつき優しい」「野球選手としてスポーツマンシップとフェアプレーに終始した」――。米公文書館に残された裁判記録には、7千人以上の助命嘆願の署名記録や手紙が付されている。だが、判決が覆ることはなかった。

獄中、心躍らせた野球記事

 平手は獄中から、恋人に婚約破棄を申し出た。死への心の準備を進めようと、教誨師(きょうかいし)に仏教を学ぶ平手の心を躍らせたのは、野球だった。郷里の少年野球を報じた新聞記事で兄の邦夫が監督になっているのを見つけ、8月5日付で「必勝を祈念しております」と手紙を送った。

 8月22日、邦夫に宛て「一勝は/たしかめたれど/その後を/知る由もなし/兄の野球を」と記した。

 翌23日、東京・巣鴨プリズンで平手は処刑された。絞首台へと向かう前、故郷の方角へ一礼した。再開された全国大会の決勝の2日後。28歳だった。

 今、北海道北見市の高台寺には高さ1・9メートルの慰霊碑が立つ。彼の死の意味を問い続けた同級生らが、97年に建てた。5年前に亡くなった邦夫は、体が続く限り命日に碑を訪れたが、長男の正機(72)に弟のことを話さなかった。

 建立の年の命日には同級生ら30人ほどが碑の前に集まったが、昨年は渡辺や正機ら5人。渡辺は「この方がなぜこんな形で亡くなったのか。後の世代にも知ってほしい」と話す。

 渡辺は、訪れる人がなくなっても命日に慰霊を続けてほしい、と寺に頼んでいる。=敬称略(平井良和)

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 〈BC級戦犯〉 第2次大戦後、連合国によって捕虜虐待など「人道に対する罪」や「通例の戦争犯罪」に問われた元軍人ら。約5700人が起訴され、後に減刑されたケースも含めて約1千人が死刑判決を受けたとされる。日本の軍人・軍属らは、横浜やマニラなど各地の軍事法廷で米国軍人の検察官や裁判官らによって裁かれた。

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