【動画】被爆体験と核兵器廃絶への願いを語る細田浩子さん
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東京都中野区(広島) 細田浩子さん(78) 8歳

 家族で疎開するため、東京・荻窪から岡山をへて1945年2月末に父の実家がある広島へ。父が陸軍参謀本部に勤めており、「うちが疎開すると、近所の人が日本はもう負けると思うから」とぎりぎりまで疎開できませんでした。

 8月5日朝、父の実家がある広島市猿楽町(現・中区大手町1丁目)に祖母の墓参りに行きました。今の原爆ドームのすぐ前。もし1日早く原爆が投下されていたら……。父は「おばあちゃんが私たちを救ってくれたんだろう」とよく言っていました。

 6日朝、借りていた父の兄の家で朝ご飯を食べていました。グリーンピースばかりのご飯。私は食べ終わっていたけど、妹はまだで「早く食べなさい」と言って。そんなとき、ピカー、ドカーンときました。家が全部落っこちてきて、私は「死んじゃった」って思いました。しばらくしたら人が束になって動く音が聞こえて目が覚め、空が見えました。犬かきをするようにしてがれきから出て、人波に乗って走りました。

 土手に着くと防空壕(ごう)があり、みんながどんどん入るから私も入ろうかと思ったけど、疲れてその場に座り込みました。「浩子、ここにいたか」。父に声をかけられ、力が抜けました。私は頭の3カ所くらいにガラスの破片が刺さっていて、父に取ってもらいました。

 妹と母は先に壕に入っていました。壕はぎゅうぎゅう詰め。皮膚がずるずるむけた人、「うーん」「ふーん」という声を出す人。息苦しくて、暗くて、気持ち悪かったです。

 壕の外の河原を妹と歩いていると、子どもの名前を呼ぶ若い母親が走っていました。すると、同じ幼稚園らしき子が来て、その子に「○○ちゃん知らない? 私の坊や知らない? 知らない?」とつかんで振り回すようにしていました。その子は親を捜していたらしく、「僕のお母ちゃん、お母ちゃん」って言って泣いていました。

 おじ2人が古市(現・広島市安佐南区)から迎えにきました。私たちはおじたちが持って来た水筒の水を飲んで、古市まで20キロほど歩きました。父が人や馬の影だけが残っている橋の欄干を指さしました。私は半信半疑で「(人が)とけちゃうなんて考えられない」と思いながら聞きました。遺体を載せるトラックを3台ほど見て、何回も気を失いそうになりました。

 戦後、母の郷里の山口県光市の小学校に転校しました。5、6年のときの下校中、男の子たちから「げんばーく、げんばく」とはやし立てられました。原爆、ピカドンという言葉を聞くのが嫌でした。女の子も私の隣の席に座りたがらず、避けているようだった。

 床屋さんに行くと、「あんた原爆にあったんだってね」とおじさんに声をかけられました。おじさんも悪気があったわけではなく、言うことないから言っただけだと思う。でも、「ここでも知ってたな」と嫌な気がしました。

 中学3年の冬から東京に戻り、国立音大付属高校に進学しました。親しくなった女の子に原爆のことを話したら、クラスにうわさが広まりました。「そのうち髪が抜けるよ」と言わたことも。「もう何年もたってて抜けないのに」と悔しかった。

 8歳のころから「結婚しない」と決めていました。「変な子どもが生まれる」とよそのおばさんたちが話していました。「そうなんだ、しょうがない」と思っていました。

 高校から国立音大に進みました。出稽古をして、お金が入ったら楽譜を買ったり、自分のためにレッスンを受けたり。留学したくてもお金がなく、留学する友達の稽古をしていました。父にドイツ語を習いに来ていた男性と知り合い、35歳で結婚しました。

 地球で困っている全部の子どもたちを救いたい。大学卒業後、26、27歳ごろからボランティアを始めました。チャリティーコンサートをしてドイツにある子どものための図書館に寄付をしたり、アフガニスタンやセネガルの子どもに文房具や衣類を送ったり……。原爆と戦争で何もなくなったからかな。「地球のお母さん」になりたいですね。

 戦後に国連ができ、父は「これで戦争はなくなる」と言ったけど、いまむしろエスカレートしています。どんな戦争にも良い戦争なんてありません。核兵器も人間の欲望だと思う。この世から「核」という言葉さえもなくなってほしい。

 「一生懸命やれば、いつか平和が訪れる」と言いたい。3年前に大腿(だいたい)骨を骨折して車いす生活になり、外で活動することができなくなりましたが、ピアノ講師は続けています。核の問題が出たとき、「私たちの国は被爆したんだ」と若い人に思ってほしい。地球規模でものを考えてほしい。(聞き手・花房吾早子)

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