[PR]

東京都調布市(広島) 丸本規雄さん(85) 中学生

 広島一中から勤労動員され、もとは布団屋の工場で爆弾の信管をつくっていました。午前8時の始業だったので、仕事について間もなく、目の前が突然明るくなりました。その日の広島は空が雲ひとつない快晴。その数倍の明るさを感じました。

 「何事か」と辺りを見渡したとき、パラパラっと小石のようなものが降ってきました。屋根が爆風で小さく割れ、落ちてきたのでしょう。慌てて頭を抱えてしゃがみましたが、頭だけでなく首や手、背中と次から次へと落ちてきました。外へ出ると、すっかりと薄暗くなっていました。手探りで近くの防空壕へ逃げました。

 頭や背中は傷だらけとなり、シャツは真っ赤に染まりました。病院に行くために壕から外に出ると、辺り一帯の街がなくなっていました。広島市の中心部の方向からは皮膚まで破れて垂れ下がり、手を前にだらんと下げて、まるで幽霊のような人がぞろぞろやってきました。残酷で悲惨な姿に足がすくみました。

 翌日、自宅のある島から父と姉が舟で迎えに来ました。島に帰る時、いとこを連れて帰りました。いとこは中学1年で登校の途中に被爆。衣服は燃え、皮膚もめくれ、全身が真っ赤でした。島に連れて帰ってもどうすることもできず、見守るだけ。意識はなく、「痛い、痛い」と言ってましたが、原爆投下から1週間後の13日に死にました。「せめて半月はやく降参してくれなかったのか」。いとこの姉の泣き声が耳に残っています。

 いとこのように「ピカ」に当たって焼けただれた人は、ほとんど8月10~15日ごろまでに死にました。20日過ぎた頃には、外見は何ともなかった人々に斑点ができ、髪が抜け出すと2、3日で死にました。いつ斑点ができるかわからず、みんな恐怖におののいていました。私も8月23日ごろから寝込み、9月5日ごろまで意識がはっきりしない状態が続きました。

 9月15日の台風の傷がもとで、母は11月に亡くなりました。復学したのは年明け。授業は先に進んでいてついていけず、前から悪かった中耳炎も一段と悪くなりました。死にたくなったが、自殺することもできませんでした。

 東京の薬科大に進み、1956年に新宿で薬局を開きました。66年6月の東京集会以降、被団協の運動に参加するように。70年には「調布市被爆者の会」を立ち上げ、被爆者への病院紹介や国会請願、学校での講演活動をしてきました。生きる希望を失い、「どう生きるか」悩んだ結果、「二度とこんなばかげた戦争をやらせない」と決意した結果です。

 今の原爆は70年前よりも発達しています。体験だけでなく、核兵器の危険性も訴えなければならない。戦争があったからこそ、原爆が落とされたんです。私が一番伝えたいのは「戦争の愚かさ」です。(聞き手・岡戸佑樹)

こんなニュースも