【動画】被爆体験と核兵器廃絶への願いを語る加藤千鶴子さん
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東京都足立区(長崎) 加藤千鶴子さん(69) 胎内被爆

 妊娠中の母が自宅にいたとき。爆風で畳が吹き上がり、障子がみな倒れ、窓ガラスもみな割れました。父は消防団に入っていたので遺体処理へ。下痢や嘔吐(おうと)で2、3日休んだ後、また爆心地へ行きました。父は私が中学生のとき、脳出血で倒れ、13年間寝たきりになって亡くなりました。兄が家計を支え、私もデパートでアルバイトをしながら高校に通いました。

 小学6年のとき、ABCC(原爆傷害調査委員会)に行きました。かっぽう着を着させられ、丁字帯をつけて検査。X線撮影と採血をしたこと、ベッドに寝かせられたことを覚えています。検査は昼ごろ終わり、食事代わりにと巻きずしとクッキーをもらいました。クッキーが珍しい時代、食べずにとっておきました。

 私の学級では5、6人が同じ検査を受けたようで、「あんた、なんばもらった?」「何入っとった?」と友達同士で聞き合うのが楽しかった。でも、なぜ呼ばれるのか、あの人は呼ばれるのか、私も呼ばれるのか分からず、不安でした。

 中学3年のとき、長崎市内のスポーツ大会でバレーボールの競技中に倒れました。原爆病院に運ばれ、狭心症と診断されました。以来、「保健室登校」。机に座っていられず、ほとんど授業に出ていません。部活動もできませんでした。

 高校卒業後、化粧品会社に就職。入社2年目の研修で、また倒れました。店頭販売の売り子として立っているときも、突然血の気が引いて斑点が出ることがありました。

 39歳で石川県内で出会った夫(喜代司さん、77歳)と結婚し、3年ほどして妊娠しました。「年が年だから、産んでいい?」。夫に聞くと「産んでくれ」。でも、妊娠2カ月半で流産しました。超音波(エコー)検査をすると、影も形もなくなっていました。

 原爆と関連がある、とすぐに思いました。姉も流産していたから。結婚当初、病院で被爆者健康手帳が使えるかどうか確かめたことがきっかけで被爆者だということを知りましたが、流産するとは思いませんでした。

 発作は50代で再び出て、いまも狭心症が続いています。ちょっとうっかりすると、風邪をひきやすい。ずっと放射能に対する不安があります。腰の治療のためにX線を撮るのも嫌で、医師に断りづらいから病院に行きません。

 70年を迎え、戦争の悲惨さをつくづく思います。いまだに世界で戦争がなくならず、日本は憲法9条をなくそうとしている。あんな悲惨な目にあったのに、どうして? 悔しいです。戦争って何だったんでしょうか。(聞き手・花房吾早子)

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