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山梨県身延町(広島) 馬場正則さん(89) 陸軍船舶通信隊補充隊

 召集令状が来て徴兵されたのが1945年4月。直前まで東京の沖電気に勤めていました。「もう、日本はダメ」と分かってたもんで、「兵隊に行くのは死ににゆくようなもんでバカらしい」って気持ちで行きました。

 広島に着いたのは4月25日。爆心地まで約2キロ、補充隊は比治山の防空壕(ごう)の近くにいました。前の晩、空襲警報が夜中に2回あって眠れなかったため、8月6日は午前に就寝許可が出ていました。バーンという音で目が覚めたが、爆風や土煙で目も開けられない。2段ベッドから下を見ると、柱と柱に挟まれて血を吐いている同僚がいました。即死でした。

 外に出たら、市民が続々と来るんですよ。血だらけで赤ちゃんをおぶっているお母さんもいたし、リヤカーで子どもを引っ張ってくる人もいた。ただ事じゃないと思いました。防空壕があるから、すごい人が比治山に集まっちゃった。

 水ぶくれで目が見えなくなっている人が道ばたをはってました。我々は山のようなけが人の手当てに奔走したのですが、やけどには食用油を塗るくらいの治療しかできなかった。傷口は水で洗いましたが、付ける薬もない。重傷の人も道にむしろを敷いて寝かし、次々に息を引き取りました。けが人が多すぎて手の施しようがない。見殺しにしているような気分になりました。あの体験は何年経っても忘れない。戦場そのものでしたから。

 9月末に身延町に帰ってきました。5年ぐらい家の畑仕事を手伝い、26歳のころ、身延駅の駅前通で履物屋を始めました。被爆体験は誰にもわからないようにしていた。「広島には草木も生えない」というデマが飛ぶ中、娘2人がお嫁に行けなくなるのは困ると思ったんです。

 被爆者健康手帳を取ったのは80年。娘2人の結婚がうまくいったからです。取った時は「これが俺の証明になる」と思いました。近所の人からも「なんだ、広島にいたのか」と言われる程度でした。

 原爆の傷はずっと消えない。当時のこと思い出すのは本当に嫌。この世の中から核兵器をなくしてもらいたい。でも、米国が持っている以上、他の国も持ちますよ。核兵器廃絶はなかなかうまくいかない。

 とにかく戦争をやらないことですよ。何で憲法を変えようとするのなあ。今まで通り、日本は戦争をしない国ですから、で通った方がいいじゃないですか。

 今の集団的自衛権の動きはうんと気になるね。戦争ほど惨めなもんはないですよ。殺人事件が起きると騒ぎになるけど、そんなもんじゃない。戦争は無差別な殺人で、本当に容赦ない。(聞き手・岡戸佑樹)

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