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東京都練馬区(広島) 澤田郁代さん(78) 8歳

 横川駅(現広島市西区)近くの官舎にいて、両親ときょうだい4人を一度に失いました。父は中国地方総監府の役人。住まいは2階建ての官舎でした。母が「おはぎを作ろう」と言ったので、兄はルーペとピンセットを手に持ち、もち米に混じった石を取り除いていました。

 その時、2階が崩れ、みんな下敷きになった。私ははりとタンスに挟まれて助かりましたが、5人はほぼ即死だったと思います。私の名前を呼ぶ兄の声が、一度だけ聞こえました。

 スリップを着ていた私はひどいやけどをしました。井戸水をざぶざぶかけ、サツマイモ畑で芋づるの中に潜り込んで雨をしのぎました。無人の空き家に転がり込み、夕方、かかりつけの女医さんに手当てしてもらいました。

 終戦直後、福岡の叔母が身重の体で駆けつけてくれました。9月末に父の実家がある現在の福岡市早良区へ。今年5月、その時に通った小学校の同窓会に初めて行きました。同級生が「ケロイドに触らせてもらったことが忘れられない」と話していましたが、私は全く覚えていません。

 修猷館高校から日本女子大へ進みました。嫌な思いはしていませんが、お風呂には困りました。寮生が入る風呂には入らず、自宅通学の友人の家を訪ねていました。

 卒業後、東京都の八王子乳児院で心理指導員として働きました。叔父がいなければ孤児院に行っていた、という思いもありました。夫は乳児院に来ていた医師で、被爆のことは知っていたと思うけれど聞きませんでした。怖さ、マイナスは十分わかっていたようで、一度だけ、次男の結納のために電車に乗った時、「本当は正常な子が生まれるか心配だった」と漏らしました。その一度だけです。

 これまで語り部をしたことはありません。今も大勢の前で話すことは難しい。でも、今回は最後だろうと思って答えました。思い出したくないという思いもあります。でも、誰かに話しておいたほうがいい。いま話さないと、いつどうなるか……。

 いま、戦争中に重なる空気を感じています。昨日も修猷館の同級生の勉強会があった。同級生の中には、大連から引き上げてきた人もいます。みな戦争で痛めつけられ、痛みや怖さを感じています。戦争を知るものとして、焦りのような思いが強くあります。(聞き手・岩波精

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