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東京都葛飾区(長崎) 奥田萩子さん(87) 女子挺身(ていしん)隊

 生まれ育ちは宮崎県。原爆が投下された時、挺身(ていしん)隊として長崎市の三菱重工の造船所で働いていました。

 8月9日の朝は寮にいました。寮長先生から書類を造船所の本工場に持っていくように言われ、友人と一緒に出かけたのです。本社が飽(あく)の浦町にあったので、船で本工場に向かい、6階で書類を提出しました。

 「お昼に間に合うように帰ろうね」と話しながら階段を下りていた時、5階の踊り場で目を射るような白い光が右から左に流れてきました。「あれ、なにっ」と言った瞬間、ドーンという衝撃が起こりました。

 友人と手をつなぎ、5階から1階まで飛ぶように下りました。外に出ると、建物のガラス戸が粉々に割れて、うずたかく山のようになっていました。警防団の方から「なんばしとっとねん。早く防空壕(ごう)に行け。こっちだ」と手を引かれました。防空壕には次々と人が入ってきて、「今のは何やったと」と口々に言い合いました。

 6時間ほど経ったころ、飽の浦を出る船に乗り込みました。大波止につくと、誰もいない、何もないのです。しばらくすると、前から服がぼろぼろに裂けて、ワカメのようなものを手にぶら下げた女の人が歩いて来ました。それは手の皮膚でした。女の人はうめきながらよろりよろりと歩いていくのです。

 怖くて怖くて、助けることもできず、走りました。寮では「よく帰った」と迎えてくれました。その後はけが人の看病や炊き出しなどを手伝いました。そのうちに終戦になり、私と一緒に地元を離れた友人2人と故郷に帰りました。

 2年ほど前から、葛飾区の被爆者団体「葛友会」のメンバーとして学校などで被爆体験を語っています。メンバーの高齢化で、証言できる人が減ったことがきっかけです。それまでも語り部を頼まれることはありましたが、ずっと避けてきました。語り出すと、どうしても人を焼く臭いが思い出されて、いやだったんです。でも他にいないんだもの、しかたない。

 葛友会のメンバーは今、60人くらいです。以前は10人以上の語り部がいたのですが、今は3人。認知症で語り部を辞める人も多い。友人も数年前、介護施設に入りました。夫や子どもの記憶も薄れ、私を見ても誰だかわかりませんでした。

 いまもよみがえる原爆投下後の長崎市の様子、泣き出したくなるような恐ろしさ、人を焼く臭い、放射線による健康被害……。生きている限りは忘れることはできません。「いつまでも元気でいたい」と思うと同時に、忘れてしまった友をどこかでうらやましいと思ってしまうんです。

 被爆体験を語ると、子どもたちは一生懸命、話を聞いてくれる。質問もたくさんしてくれる。ただ、「昔の冒険話を聞いているという程度でしか届いてないのかな」と思うこともあります。それでも、体験した人間にしか分からない恐ろしさを伝えられるのが私の役割。「伝えてほしい」と言われるなら話すしかありません。

 かなわないかもしれないけれど、若い皆さんが、私たちが経験したようなひどい目に遭わないよう、核反対を訴えてきました。平和はとても大事。平和のためには若い力が大切です。若い人たちに、核は嫌、世界から核をなくしたいという思いを示してほしい。(聞き手・国米あなんだ)

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