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長崎市(長崎) 深堀柱(あきら)さん(85) 中学生

 学徒報国隊として、三菱兵器茂里町工場で魚雷を製造していました。8月9日朝、敵機侵入の空襲警報が出たため、工場から約2キロ離れた消防署へ伝令に走らされました。

 伝令を終えて消防署のベランダで休憩している時、飛行機の爆音とともに稲妻を無数に束ねていっぺんに放射したような強い光と轟音(ごうおん)、爆風に襲われました。体は宙に舞い、壁と床にたたきつけられ、失神したんです。

 意識を取り戻し、消防署から逃げ出しました。消防署の周りには、頭から血が噴き出している人や、焼けただれた手足の皮膚をぶらぶらさせて歩く人の行列ができていました。長崎駅近くの自宅にたどりついたのは2、3日後。母の姿はなく、行く場所もなく、消防署に戻りました。

 署に戦災孤児として置いてもらえることになり、がれきを撤去する署員に弁当を配る仕事を始めた。2週間以上たって近くの防空壕(ごう)を通りかかった時、ひょっこりと母が顔を出した。お互いに生きていたことに驚き、泣きながら抱き合いました。爆心地近くで独り暮らしをしていた祖母も一緒でした。祖母の口は半分ほどさけ、太ももの肉がえぐられて細い息で横たわっていました。仮設診療所では赤チンを塗るだけでした。

 防空壕(ごう)で暮らすようになり、夜は長崎駅前で遺体を焼く手伝いをしました。遺体に火が付くと、遺族は名前を呼びながら遺体にしがみつく。私も泣きました。遺体を焼く匂いは壕にも流れ込み、眠れないほどでした。火葬のための木材を探すため、転がっている遺体を「ごめんなさい」と乗り越え、焼け残った電柱を手で掘り出しては持って帰りました。

 米軍上陸のうわさが流れたため、漁船を借り、キリシタン弾圧の時に祖父が逃げた上五島に母と祖母とともに向かいました。港もない海岸に船を着けた私たちを集落の人たちは気遣ってくれた。食べ物や傷や病気にきく草や薬を持ってきてくれた。祖母は被爆から2週間ほどして亡くなりました。苦しく、つらかっただろうと思います。

 原爆の日になると、あの時の集落の人たちに感謝しています。お世話になった人たちはみなさん亡くなりましたが、被爆70年の今年は訪ねようと思う。もう行けないかもしれないから、なんとか行きたい。

 西日本新聞社からテレビ長崎に転職しましたが、被爆のことを話すことはありませんでした。しかし、被爆40年の時、当時のローマ法王が語った「被爆者が自らの体験をもとに語ることが平和の価値をたたえる」という言葉に、「自らも平和の一滴とならなければ」と思いました。それから、教会やカトリック系の学校などに頼まれて信徒や子どもに話すように。教会を通じて依頼があり、イタリアに行きました。ピースボートにも乗り、ポーランドなどで証言をしました。広島の教会の依頼で、今年の8月5日には初めて広島で話すことにしています。

 最近、自分が死んだ時の遺影を決めました。2009年にイタリアの教会で、自分で描いた浦上天主堂の被爆マリアの絵を見せながら、原爆について語った時の写真です。

 葬儀の時に妻か子どもに読んでもらう会葬者へのお礼の言葉も昨年から準備しています。そこでは被爆体験を描きたいと絵画教室に通い、被爆マリアの絵を描き続けたことに触れてもらうつもりです。被爆マリアの絵はこれまで何枚も描いてきました。今年は原爆ドームと浦上天主堂を背景にした被爆マリアを描きました。

 子どものころに見上げたマリア像があんな姿になってしまったことは原爆の象徴。原爆を経験していない人にも、原爆を想像してもらえるものです。

 被爆マリア像が安置されている浦上天主堂の小聖堂には、信徒の原爆死没者名簿を刻む銘板があり、私と妻の名もすでに刻んでもらっています。人生の最後に私の原爆への思いを集まってくれた人に知ってもらえればと思うのです。

 後に託すものは託さないといけない。原爆投下時間近くで針が止まり、振り子がなくなって鉄製の針が曲がった自宅の時計を資料館に寄贈しました。多くの人に見てもらい、少しでも原爆の威力を伝えてほしい。

 15年ほど前のことです。横浜に住む孫に時計について尋ねられ、原爆のことを話しました。孫は中学生になってその時のことを作文に書き、横浜市の平和大使としてニューヨークの国連に行くことになりました。その姉は中学校の教員になり、今年の修学旅行で生徒を原爆資料館に引率してきました。

 孫がまた次の世代に伝えてくれたら、うれしい。(聞き手・八尋紀子)

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