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横浜市緑区(長崎) 西岡洋(ひろし)さん(83) 中学生

 1945年8月9日、何人かの友人と長崎県立長崎中学校の医務薬品室にいました。「ぶーん」という爆音。「敵機が急降下してくる。どんな機体か見てやろう」と、窓際へ走り寄りました。その瞬間、全身がオレンジ色の光に包まれました。とっさに両手で目と耳をおさえ、伏せました。

 「爆発音がくる」。身構えましたが、なかなか来ません。周りには友人たちがいました。「早まった。恥ずかしい」。立ち上がりかけた瞬間、轟音(ごうおん)と爆風が襲ってきました。窓ガラスが割れ、破片が室内に飛び散りました。「死ぬ」。そう思いつつ、教室の隅に身をうずめました。気づくと、友人たちは血だらけになっていました。

 防空壕(ごう)に逃げた後、帰宅しました。空を覆う黒煙の中、赤い火の玉のように見えた太陽の姿が今も忘れられません。「長崎にはクリスチャンがいる。米国はキリスト教徒が多いから、長崎を爆撃しないんだ」。そんなうわさが飛び交っていましたが、たった1発の原子爆弾で否定されました。

 翌日、学校へ行くと、先生からスコップを渡され、爆心地付近の負傷者を救出するよう指示されました。でも、スコップでなんとかなるような状況ではありませんでした。建物はほとんど倒れ、焼けていました。ぼろぼろの衣服をまとった人たちがあちこちに横たわっていて、学校の制服を着た遺体もありました。

 道ばたから手を伸ばし、私の水筒をつかもうとする負傷者もいました。私は水筒を握りしめて歩きました。たった一口の水さえも、断りました。「人間の心」をなくしていました。それが戦争です。私の胸には、今もとげのように刺さっています。

 家族はみな無事でした。でも、周りでは、元気だった人たちも髪の毛が抜けていき、亡くなっていきました。学校から「検査を受けるように」と言われましたが、行きませんでした。もし、白血球が増えていたら「死の宣告」を受けるのと同じ。他人には言えない恐怖感がいつも、つきまとっていました。

 私は、被爆者を特別扱いしなくていい、と思っています。でも、不安を持ち続けて暮らさなくてはいけないところが、ほかの戦争被害者と違うのです。

 東京都立大(現・首都大学東京)の学生だった1952年、学園祭の原爆展を手伝いました。私が長崎出身と知る友人から長崎の写真を見せられ、「どこか教えてほしい」と頼まれたのがきっかけでした。原爆展は評判を呼び、画家の丸木夫妻の作品と一緒に全国で巡回展を開くことになり、同行しました。絵を前に、何回か被爆体験を語りましたが、その後はずっと原爆から離れていました。

 商社マンとして対米貿易を担っていた60年代、取引先の米国人に被爆者だと明かしたところ「申し訳なかった」と謝られました。面食らいました。「軽々しく話せない。気まずい思いはもう、したくない」。そう思いました。

 20年ほど前に、長崎中の1年後輩の田中熙巳(てるみ)さん(現・日本被団協事務局長)がリーダーだったこともあり、誘われて米国へ被爆体験を語りに行きました。「この世の地獄だった」というような手あかのついた表現は避け、事実を見た通り話そうと誓って臨みました。

 「日本では、原爆で非戦闘員が無差別に殺傷され、恨みを抱く人が多い。米国では戦争が早く終わり、日米の多くの人が助かったと言われている。どちらも本当だと思う。でも、原爆投下が正当化されるべきではない」。そう話すと、多くの拍手が起きました。核兵器廃絶のため、体験を語る必要があると感じました。

 国内外で50回前後は証言しました。最後には必ず「貴重な体験だと言われますが、長崎市民約25万人のうちの、1人の体験に過ぎません」と付け加えるようにしています。私には、体験したことしか言えません。家族を失った人、差別された人、大けがをした人など、10人いれば10通りの体験があるからです。

 私は一生懸命話します。聞く方も一生懸命、聞いてくれます。でも、1人で語っていても実態が伝わらないのでは、という思いもあります。原爆で一家が全滅し、1人だけ生き残ったような同級生もいます。あれから70年たちました。風化させる前にみな、話してほしいと思います。(聞き手・岡本玄)

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