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静岡市清水区(広島) 川本司郎さん(78) 8歳

 8月6日は朝から暑かった。朝、警戒警報のサイレンが鳴り、防空壕(ごう)に避難しましたが、すぐに解除されました。私は水浴びに行った14歳の兄の後を追い、軍用鉄道の鉄橋の上を往復していました。

 すると、目もくらむような光線が西の方でぴかっと光った。振り向くと、青というか赤というか、巨大な火の玉がゆっくりと上がっていく。何百何千のマグネシウムを炊いたような光です。思わず線路上で目をつぶり、耳をふさいで身を伏せました。ちらっと目を開けて上を見ると、爆風とほこりで何も見えない。何にも見えない、本当の真っ暗闇でした。

 1分ほど過ぎると、雲が抜けたように少しずつ青空が見えてきました。線路の上を後ずさりして川沿いの道路に降りました。西側を向いていた左の腕と足に大きな水ぶくれがたくさんできていた。顔もひりひりして熱かったけど、痛みはそんなにありませんでした。頭が熱く、「熱いよ、熱いよ」と泣いていると、兄に「頭、毛が燃えている」と言われました。いがぐり頭は焦げていて火が回っていました。赤ふんどしで川泳ぎをしていた兄も、背中に大きな水ぶくれが数カ所にありました。

 急いで家に帰ったら、天井が抜けて空が見えていました。周りの家はペシャンコで、道路の上に残骸がかぶさっていた。しばらくして火災が起き、人々は避難を始めました。道には瓦が落ちていて裸足のまま歩けない。昔通っていた幼稚園でげたを借りました。

 二葉山の裏側の国民学校に着くと、2階の教室に収容されました。机や椅子をどかしてござを引いた。次々に避難者が集まり、担架で運ばれてくる人も。市役所付近の建物を取り壊しに行っていた父も夕方、皮膚がべらっとはがれて帰ってきました。校舎2階の窓から、山の上で死んだ人を燃やしている火を見つめていました。

 9日ごろ、父を担架に乗せて父の実家に連れて行くことになりました。途中で汽車を降ろされ、備後十日市という駅に午後9時か10時ごろに着きました。

 町の人が担架に乗せて国民学校に連れて行ってくれました。地元の女学校の生徒たちが子どもの面倒を見ていて、自宅に連れて行って、ご飯を食べさせてくれた。学校で教室にござを引いて寝泊まりしました。

 学校にいた人たちが親戚や実家に帰っていき、だんだん少なくなっていた頃でした。8月18日、寝たきりだった父がひょこっと起き上がって「スイミツ(桃)を食べたい」と。缶詰のスイミツを食べた父は「何かあったら、お母さんの実家がある長野に帰るんだ」と言い、翌日、亡くなりました。

 9月初め、新学期になると、母と息子5人で母の実家がある長野県に行きました。当初は叔母の納屋を借りて住み、知人を頼りに転々としました。一家に働き手もなく、水だけで過ごす日も。雪の中に手を突っ込んで草を食べたら、顔が腫れて大変だった。爆風の影響か全身が黒かったため、学校では「ピカドンの子」とはやし立てられました。

 ある日、母が町の食堂で卵どんぶりを食べさせてくれました。帰り道、母と弟とつり橋の上に立った。冬の寒い日でした。何分いただろうか、ただ黙って立っているだけ。弟が泣き出すと、母は「ごめんね」と謝りだした。子ども心にも母が死のうとしていたことはわかった。中学に入り、母から「飛び降りるつもりだった」と直接聞きました。

 70年に日立製作所に就職し、清水に転居しました。会社に入る時は「就職に不利」と思い、被爆者と言っていません。妻にも結婚して2、3年経ってから伝えました。子どもたちが生まれるまで言えなかった。

 20年ぐらい前から小中学校での講演活動をやっています。広島の平和記念資料館が撮った被爆者のDVDにも出演しました。誰かが伝えていかなければならない。自分らの世代はある程度記憶がある。まだ動ける最後の世代です。

 核不拡散条約(NPT)再検討会議に2010年も今年も行きました。今年は現地のハイスクールで体験を語ったり、デモ行進をしたりしました。今回はいい結論が出ると思ったけど、決裂してしまった。

 米国の都合で、核兵器廃絶が進まない。「核なき世界」をめざすというオバマ大統領のプラハ演説(2009年)は何だったのでしょうか。日本は核の傘に入り、核廃絶に取り組む気がない。むしろ戦争に向かって走っている。

 5年後の再検討会議に行ける被爆者はかなり減っているでしょう。倉庫には講演会やパネル展で使う資料などを保管しています。体験は誰かが伝えていかないと。元気なら私は行くつもりです。被爆者の目が黒いうちにの核廃絶に道筋をつけてほしい。(聞き手・岡戸佑樹)

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