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熊本市南区(長崎) 松波香さん(95) 主婦

 熊本市で育ち、軍隊から戻って開業しようとしていた長崎市の歯科医に嫁ぎました。すぐに夫に2度目の赤紙(召集令状)が来て、1939年に急きょ式をあげたんです。

 それから浦上天主堂近くの家で、夫の両親と暮らしていました。義父は米国生活の経験があり、レディーファースト。義母とともに私を自分の娘のように大事にしてくれました。

 原爆投下の10日前、熊本にいた姉を手伝うため、長崎を離れました。当時は新聞もラジオも何も言わなかったから、原爆が落ちたことは知りませんでした。長崎に戻ったのは8月19日。長崎に入り、汽車の窓から外を見ると、何もない。頭が真っ白になりました。

 長崎駅で降りた後、お諏訪さん(諏訪神社)近くにいる義父の会社の人を訪ねました。途中、街は死体の臭いでいっぱい。会社の人は父の骨を拾い、木の箱に入れてくれていました。義母の骨はみつからなかったそうです。

 熊本から持ってきた小豆とお米、汽車の中で復員兵にもらった砂糖でおはぎを作り、葬式をしました。通っていた教会も焼け、牧師さんが身を寄せていた寮に何日か泊まらせてもらいました。

 残っていたミシンと洋裁ノートだけを持ち、熊本の実家へ。牧師さんは「女一人では心もとないから」と言い、小学3、4年生ぐらいだった一人息子を付き添わせてくれた。ずっと「あの子はどうしただろう」と気になっていたら、奈良の教会で牧師をしていることが昨年わかりました。70年ぶりに電話をして、手紙のやりとりもしました。毎年8月9日には長崎に行って千羽鶴を供えているそうです。

 夫は戦死。再婚して2人の子どもができました。焼け野原の現場に立ったショックは死ぬまで忘れられない。手記を書こうとしましたが、結局、最後まで書けていません。

 あんなことがあったのになぜ核兵器がなくならないか、わからない。70年もたつのに。被爆地を見ればわかることなのに。絶対に核兵器をなくしてほしい。なくすために、あらゆることをしないといけない。

 でも、95歳の私にはもう何もできない。その気持ちだけ言っておきたかった。(聞き手・八尋紀子)

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