[PR]

東京都文京区(長崎) 吉重信(まこと)さん(71) 1歳

 原爆投下のことは記憶になく、母から聞かされました。朝の空襲警報で、私が「あなちゃん(防空壕)に行こう」とせがみ、母におぶわれて防空壕に向かう途中、被爆したそうです。母は背中が急に熱くなり、その後にドーンという大きな音を聞いたそうです。2人とも無傷でした。

 父は海の近くの大波止の食料団で手伝いしていたそうです。大きな爆弾が炸裂(さくれつ)したと聞いて、浦上天主堂のほうまで見に行こうとしたら、馬車が横転していた。黒こげの電車の周りには死体が散乱し、黒い雨が降り、川にも死体が浮いていたそうです。皮膚が垂れ下がった人が水を求めて歩き、コンクリート製の天水桶に首を突っ込んだまま死んでいた人もいて、これ以上進むと危ないと思い引き返したということでした。

 小学校や中学校のころ、夏休みや冬休み明けに同級生の何人かが亡くなりました。20歳のころには、幼なじみの「のりちゃん」が白血病になり、3カ月で亡くなりました。のりちゃんは元気で体力があり、私の憧れでした。それからです。被爆と死が結びつくようになったのは――。

 20代のころ、米国原子力潜水艦の寄港に抗議する活動に加わりました。母は被爆については話したがりませんでしたが、「核に対しては過敏に反対していくべきです。できることをやりなさい」と言ってくれました。

 世界にある核兵器の数を黒板の広さとすると、広島と長崎に投下された原爆は端っこの点ほどだ、と聞かされたことがあります。この世から核をなくすため、被爆者としてアピールすることが務めだと思っています。(聞き手・伊藤あずさ)

こんなニュースも