【動画】被爆体験と核兵器廃絶への願いを語る田中暎郎さん
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東京都北区(広島) 田中暎郎さん(91) 海軍呉鎮守府特設特別陸戦隊 

 呉で毎朝恒例の軍艦旗掲揚の礼を終え、休憩に入ったとき、山の上から見えたんです。ぴかっと光って、ばーんとすごい音の後に黒い原子雲。まともじゃないと思いました。

 午後に救援命令が出て、翌7日に呉駅を出発。海田市駅で列車を降りて広島駅まで歩いた。のろのろと歩く負傷者の姿を見ました。街中に入ると、もっとたくさんいました。倒壊した広島駅のがれきを片づけ、東海道線を通す任務。駅構内でも子どもや女の人の死体をみました。

 広島駅近くの陸軍東練兵場の一郭に野戦病院用のテントが設営されました。その後2日間、郊外に避難した人たちに握り飯を配りました。1日目は市内の真ん中、2日目は朝早く出て夜遅くまで、郊外をトラックで回りました。帰還は9日。ソ連が参戦し、「まもなく戦争は終わりだ」という話が出ていました。

 当初、あの爆発は「比治山にある陸軍の弾薬庫が誘発した」と言われていました。ところが、そうではなく、「高性能熱線爆弾」だと。当時、原子爆弾とは言わなかったんです。

 入隊するまで、東京美術学校(現・東京芸術大)建築科にいました。徴兵検査を受けたら「建築をやってるから陸軍工兵だ」と言われ、「どうせならかっこよく死のう」と海軍予備学生の募集に応じました。美術学校の先生は必ずしも軍国主義ではなく、「生きて帰ってこい。戦後の美術をじっくりやるように」と。

 戦争が終わり、幸い生きて帰ってきました。脱毛や皮膚炎が出ましたが、被爆が原因ではないと言われました。「人生1回、有意義に生きよう」「戦後日本のために勉強しよう」と思って復学しました。同級生10人のうち1人が戦死、2人がシベリアに抑留、1人が台湾で捕虜になっていました。

 阪神大震災のとき、神戸市東灘区役所で相談窓口のボランティアをしました。「義を見てせざるは勇無きなり」の精神です。自分の職業でできることがあるなら、人のために尽くしたいと思いました。震災後の焼け野原は広島の惨状と重なり、見ていてつらかった。

 昨年5月、仙台市にも行きました。東日本大震災で被災した東北の神社仏閣を補修するプロジェクトを大学の先生と組んで検討中です。「戦争で死ぬ」「原爆の放射能で死ぬ」と思っていたから、生かされている思いがあります。ずっと現役で専門を生かしたい。

 米国を憎むというより、日本の軍国主義が間違っていた。戦争は残酷。国と国の争いに国民が巻き込まれてしまう。

 一方で、若い人に被爆体験が伝わっていないと感じています。自分たちのこととして連想できないんだろうね。我々が死んだ後、日本はまた戦争をするかも。核兵器を持ったら、日本は戦争をやろうという気になっちゃうかもしれない。

 ロシアのプーチン大統領の「核用意発言」は時代錯誤もいいところ。北朝鮮も核兵器を頼りにしている。我々の被爆体験が伝わってないのかねえ。(聞き手・花房吾早子)

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