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広島市佐伯区(広島) 葉佐井(はさい)博巳さん(84) 中学生

 原爆が投下された時、学徒動員で現在の廿日市市にいました。母と下の妹と白島(現・広島市中区)の家で暮らしながら、軍需工場に通って機関銃の弾の製造などに関わっていました。

 8月6日午前8時15分、地御前の工場に集合し、準備体操をしていると、閃光(せんこう)を感じました。広島市内からちぎれ雲がどんどん向かってくる。雲が頭の上に来た時、むっとするほどの暖かい空気に包まれ、工場のガラスがガタガタと鳴りました。

 昼ごろになり、すすで真っ黒になった人たちが歩いてきた。家族が心配で、市内の様子を聞きましたが、誰もが「自宅に直爆弾が落ちた」「庭に爆弾が」と言う。飛行編隊が見えなかったのに、そんなにたくさん爆弾が落とされたのかと不思議でした。

 負傷者を乗せたトラックが何台もやって来ました。ひどいやけどを負い、歩けなくなった人ばかり。翌日昼ごろ、白島の自宅に向かおうと広島電鉄で西広島に出ました。ビルは所々にしか残っておらず、遠くの広島駅まで見渡せました。市中心部に向かうほど死体が増えました。母と4歳の妹は無事でした。

 戦争中は軍国少年。周囲の大人からは「友達が倒れてもその上を乗り越えて進め。決して捕虜になるな」と聞かされていました。原爆が落とされても「これが大人たちが言っていた戦争か」「ここでひるんではいけない」と思いました。近所の少年が原爆で死んだ時も、かたきをとってやると誓いました。だから、僕は終戦を理解できませんでした。「残った者は最後まで戦わないとだめなんじゃないのか」と。

 数カ月後に学校が再開して、先生たちが民主主義を説き始めました。これまで教わってきた内容と全然違う。「大人はずっとうそを言ってきた」と思った。そして「自分はうそを言わない」と決めました。

 広島大工学部に進学し、原子物理学の研究室に入ったのは27歳ごろ。「日本は原子核研究が禁止され、日本の原子力は10年遅れている」と言われ、放射線に関する研究を専門にするようになったんです。当時は純粋に原子力時代が来るんだと思っていました。

 81年に助教授として、原爆を開発した米国のロスアラモス研究所へ。ロスアラモスにはモニュメントがあり、誇りにしているわけです。研究者から「原爆が多くの日本人を救った」と言われたこともあります。核兵器を造って自慢しているなんて、おかしいと思いました。

 スパコンを使った計算による被曝(ひばく)線量の再評価がアメリカで始まっていた。僕は被爆者で、長年放射線測定にかかわってきたので、広島でチームをつくって被爆建物の線量を測定しました。できるだけ正確なデータを知ろうと、ひたすら資料を集めました。

 調査を始めた時にチームで確認し合ったのは、「二度と広島のような被害が起きないようにするための調査だ」ということです。原爆が広島にどんな被害をもたらしたのか、核兵器がどんな被害をもたらすのか、きちっと証明しようとしたんです。その後、日米合同研究グループの日本側座長となり、新しい被曝線量の推定方式「DS02」を作りました。

 研究者でいる間は平和運動とは距離を置いてきました。2005年、広島国際学院大の学長を辞めてから被爆体験の証言活動などを始めました。

 核兵器というのは被害を小さくすることができません。核分裂や核反応は止めることはできない。戦場にいない子どもや老人も巻き込んでしまう。

 核兵器を持っている国は「抑止のためだ」というけれど、そんなものを持っていたら、いつか使ってしまうでしょう。アメリカだって使ったんです、絶対に使われないってことはないんです。核軍縮じゃない、廃絶しかないです。(聞き手・国米あなんだ)

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