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鹿児島県日置市(長崎) 本田美代子さん(93) 主婦

 アンケートに答えようか、どうしようか迷ったけど、「何かひとつくらい残しとかんとね」と思って。

 孫の有馬正吾さん(32) 小学校教諭 4月の終わりごろ、急にアンケートの手紙を渡されたんです。それまで乗り気じゃなかったのに。急に書いた。読んでくれって。おじいちゃんの被爆体験を聞いたことはあったけど、おばあちゃんの体験は初めてでした。

 おじいちゃんの被爆体験を初めて聞いたのは、小学校中学年のころ。夏休みになると、親戚が集まりますよね。そこでおじいちゃんは長崎市の地図を広げるんです。「おじいちゃんはここ、おばあちゃんはここにいた」って。

 おじいちゃんは「原爆が落ちる瞬間、B29を見た」って言ってました。それでとっさに穴に身を隠した。勤めていた工場はめちゃくちゃ。間近で見た死体。影が映った瓦……。そのとき、「あ、これは普通じゃないんだ」って思った。でも、おばあちゃんの話は聞いたことがなかったんです。

 本田さん 正吾君には、こまかときから手をかけとるんだけど、あんまり言わんやったね。原爆のことは。話しづらいというか、機会がなかったね。

 有馬さん ある日、家のお墓に「0歳」と書いてあることに気づいたんです。母に聞くと「私は本当は6人きょうだいだったけど、戦争があってね」って。

 本田さん 私は被爆したとき、おなかに子どもがいたんです。被爆後、故郷の鹿児島に戻って産みました。ふとう女の子が生まれて、2800グラムくらいやったかな。名前は豊子。被爆するとおなかの子どもに影響があるといううわさを聞いてましたから、よかったねって言いよったら、なんの。1カ月せんうちに胃腸の風邪じゃって。あんだけ泣きよったのに、朝目が覚めたら、あれっと思って、そのときはもうだめやった。息が切れとった。生後70日でした。あとから考えるとね、原爆をもらったから。

 有馬さん 寂しいとか悲しいじゃなくて、なんて言ったらいいんだろう。そんなことも知らずに、おばあちゃんに甘えてきた。「歴史の一部」のようだった原爆が、「自分たち家族の人生の一部」なんだという思いが強くなりました。機会があれば、小学校の子どもたちにも話したいと思います。大げさな授業とかじゃなくて、ちょっとした体験として、話すことができたらいいですね。

     ◇

 被爆状況を振り返る本田さん あの日は、三菱長崎造船所の工場に勤めていた主人を仕事に送り出して、自宅で靴下の穴を縫っていたの。それで、ちょっと立ち上がろうとしたときに「ドン」ですよ。ピカッと光って、伏せました。土壁が落ちて、ガラスも割れて、息がされんとですよ。もうだめかと。まさか爆弾とは思いませんでした。

 避難した造船所の社宅と自宅を行き来するとき、被爆でやられた人が載せられた担架なんかとすれ違うと、もうなんとも言われん臭いがしてね。それが一番つらかった。かわいそかけど、顔をふさぐしかないですよね。

 主人は同僚を捜そうと、浦上の方に通って。終戦までずっと。水を欲しがる人。路面電車から木の枝のようにのびた人の手足。私は妊娠していたからか、できるだけ外に出さんこと出さんことされてね。それから終戦を迎えて、鹿児島に戻ったんです。(聞き手・小野太郎)

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