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東京都足立区(広島) 中村安子さん(75) 5歳

 当時、両親の出身地だった今の広島市安佐南区に家族で疎開していました。弟と2人で縁側に出て絵本を読んでいたとき、雷かと思うような光を見ました。真っ白というか、黄色というか。爆心から約8キロ。それでも、すごい音がして、障子から何から倒れた。そして黒いキノコ雲が上がりました。

 私が覚えていたのはこれだけです。家族では6人が被爆しましたが、誰も被爆のことを話すことはありませんでした。私自身、ずっと被爆者健康手帳も取っていませんでした。

 姉に被爆した時の話を聞こうとしたこともありました。でも、「忙しいから」と請け合ってもらえなかった。家族みんな、あのときのことを思い出すのが嫌だったのかも知れません。

 私が手帳を取得したのは2013年6月。二つ上の姉に勧められたからです。姉も、2012年の暮れに広島の小学校の同窓会に出た時、同級生から「早く取りなさい」と言われ、初めて申請しました。

 それくらい、私も姉も自分が被爆者だという実感に乏しく、被爆といっても、どこかひとごとのように考えていたんです。

 チェルノブイリの事故の時、原子力の怖さを学びました。私は小学校で図工の教員をしながら、造形作品の制作をしていました。原爆もテーマにしようと思ってはいましたが、なぜだかわからないけど、どこか自分のことと思えなかった。目を背けていたんだと思います。被爆者の体験を見聞きしても、自分とは違うんだって。

 手帳を取って、足立区の被爆者の会「足友会」に入りました。そして、多くの方々の手記を読みました。結婚をためらったり、妊娠しても子どもに被爆の影響がないか心配したりする日々。自分の生活の身近なところに、苦しみ続けてきた被爆者がいることを知り、目を背け続けてきたことに対する罪の意識が芽生えました。

 今年、足友会で自分も手記を書くことになり、兄や姉に当時の話を初めて聞きました。広島に疎開した経緯。帰京した姉が髪をとかしたら毛がごっそりと抜け落ちたこと、父に「誰にもいうな」ときつく口止めされたこと。遠縁の子の悲惨な最期――。どれも、初めて知りました。

 母に生前、詳しく聞けなかったことは残念ですが、きょうだいたちから聞けて良かったと考えています。高齢者になってようやくではありますが、もう自分にうそをつきたくない。

 被爆者であることから目を背けてきたことに贖罪(しょくざい)の思いを持ち、造形作品を通じて被爆の悲惨さ、核の非人道性を訴え続けていきたい。そう思っています。(聞き手・山西厚)

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