【動画】被爆70年アンケート、山脇トモエさんの証言
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広島県坂町(広島) 山脇トモエさん(90) 広島税務署職員

 爆心地から1・5キロの舟入(現・広島市中区)で、父と母と3人で暮らしていました。弟は師範学校に行っていました。家は銭湯を経営。8月6日の朝は仕事を休んで自宅にいました。母が建物疎開に動員され、私は銭湯の店番をしなくちゃいけなかったから。いつも通り職場に出勤していたら命はなかったでしょう。

 原爆が投下されたとき、私は2階の部屋で本を読んでいました。爆風で家が崩れて下敷きになったけど、はい出ることができた。右腕にやけどをして、手の先までただれました。父も家の下敷きになり、引っ張り出すと、全身にガラスが刺さっていました。2人で逃げ、イチジクの木の下で一夜を明かしました。

 翌日。動けない父を置いて、矢野(現・広島市安芸区)の伯母の家へ。やけどから黄色いうみがずっと出ていて限界でした。大井(同)に住む叔父が母を捜しに行ってくれました。母は直爆し、国民学校に運び込まれていました。叔父が見つけたときは、まだ生きていたそうです。動かない口で、必死に井戸まではっていって、乾パンを水につけて食べようとしていたって。

 母と父は船に乗せられ、大井の叔父の家に向かいました。船上で母は「またみんなで暮らそう」って父に言ったんだって。父も「お母さんの意識があって良かった」って喜んだ。船の上で2人眠ったの。でも、母はそのまま目を覚ましませんでした。最後に父に会えたのが救いだったと思いたい。

 私が母と対面したとき、母の服はボロボロ。頭をなでると、髪が抜け落ちました。涙も出なかった。アメリカを恨むとか戦争を恨むとか、そんなことより、自分を毎日責めました。なんであの日の朝、支度の遅い母に「早うしんさい」と言ってせかしたのか。

 父は「わしが代わりになればよかったのに」と言いました。可哀想なことを言わせたよね。父も寂しかっただろうに。

 戦後、父の本籍地がある坂町に引っ越しました。初めは父と2人暮らし。翌年には弟も帰ってきた。1949年に見合い結婚するまで、小学校の事務員として働いていた。夫はニューギニアからの帰還兵。広島の人だったので、被爆にも理解がありました。夫は木材の防腐会社で働き、転勤で若い頃は会津や新潟などあちこちに住みました。

 子どもはいません。恵まれなかったんです。夫の妹に孫が2人いて、成長が私の楽しみでした。その一人の水野雄一郎さん(33)が本当によくしてくれるんです。小さいころから近所に住んでいたから、よく遊びに来てね。

 夫も私も、夫の妹もみんな介護が必要。水野さんは東京の会社で働いていたのに、私たちの面倒を見るために帰ってきてくれた。近所に住んで、買い物を手伝ってくれたり、夫の入っている施設に連れて行ってくれたり。孫同然の存在なんです。

 今まで、きちんと体験を伝えたことはありませんでした。でも、私ももう先が長くない。ちゃんと話しておかないと、誰にもこの経験を残せない。だから、水野さんに伝えておこうと思います。(聞き手・根津弥)

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