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東京都目黒区(広島) 藤原治子さん(70) 生後1カ月半

 母が親戚宅へ疎開の相談に行くため、広島駅から列車に乗ろうとしていたときに被爆したそうです。ともに暮らしていた祖母、小学生の兄、母の妹、祖母の弟は亡くなりました。骨は見つかりましたが、どれが誰かわからないまま。

 祖父はずいぶん前に病で亡くなり、父は戦病死。母の弟3人は全員戦地へ行って、そのうち1人が戦死、もう1人はソ連で抑留されていました。母にはもうひとり妹がいましたが、すでに病死。戦後、母が頼れる親族は、復員した10代の弟1人だけでした。

 母は乳飲み子の私を抱えて田舎を転々としました。紹介所で仕事をあっせんされても、「赤ん坊を抱えている」として断られる。そんな母を助けてくれたのが再婚した父です。父も爆心近くで妻と次男を亡くしていました。正義感が強く、地域の人のお世話を買って出ていた。権威に厳しい一方、弱い人や困っている人に優しい人でした。

 母と面と向かって原爆の話をしたことはありませんでした。つらいだろうなという気持ちもあったし、母が苦労しているそぶりを見せなかったので。ただ、祖母が恋しく、心細かったんだと思う。家で読書や裁縫をしているとき、ふと母が「お母ちゃんがね」と言うことがありました。

 そんな母が92歳で亡くなるまで詠んでいたのが短歌と俳句。常に鉛筆やペンを持って、チラシの裏にまで書いていました。10年前、句集、歌集にまとめて自費出版しました。

 元安川 川筋ややに曲がりたる この一角に 吾子死ににける(亡くした長男を思って。昭和32)

 母は子の 戦死を知らず子は母の 爆死を知らず 果てにけるかも(昭和33)

 編集作業で初めて読み、涙が止まらなかった。明るく日常を過ごしていた母がこんな思いを抱えて生きてきたんだと。直接激しく言われるより、じわっと、しみじみと迫ってきました。広島で亡くなった人、母の弟のように戦地で亡くなった人たちの犠牲の上にいると感じます。

 大学卒業後、しばらくして上京し、建築事務所などで働いた後、小学校の教員になりました。「国語が人を育てる」という信念で、教壇に立ちながら話し言葉などの研究に取り組みました。

 授業では戦争や原爆をテーマに、文学作品を使って意識的に平和教育をしました。でも、自分の体験を語ったことはありません。記憶がないし、「私の」と押しつけるような感じになれば、効果的だと思えませんでした。人間をダメにするのが戦争だと思います。でも「戦争はいけない」「原爆の被害はこうだ!」とただ声高に言うのではなく、色んなものを借り、子ども自身が考える場をつくる、考える人間をつくることが大事です。

 川崎市で週1回、社会人学級を持っています。戦争などで学校に通えなかった人に国語を教えています。毎年7月ごろから原爆を題材にします。「お子さんやお孫さんに戦争体験を話してますか?」。自分と同年代の生徒たちに尋ねると、ほとんどの人が話していないのね。つらいことをわざわざ思い出したくないし、気持ちはあってもできない。下の世代に伝わっていないのは私たち世代にも責任があると思います。

 きな臭い今の時代、なおさら伝えないといけない。悲しいことかもしれないけど、思い出すのも嫌かもしれないけど、忘れてしまわないで、伝えることが仕事です。「あなたがいなくなったら、孫やその孫へ途切れてしまうんですよ」。そう伝えています。(聞き手・花房吾早子)

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