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熊本市東区(長崎) 西田実さん(83) 中学生

 私は戦争まっしぐらの子どもでした。手旗信号やモールス信号を一生懸命覚えました。「戦争に絶対に勝つ」と思っていたし、死ぬことも、なんとも思わなかった。そんな軍国少年だったからいつもラジオで空襲警報を聞いていました。8月9日午前、ラジオで「島原半島を西進中」と流れました。ベランダから眺めていると、上空に2機のB29がキラキラ光った。

 「来るぞ!」と弟と妹を1階に下ろし、防空壕(ごう)に向かおうとした時、自宅向かいの佐古国民学校の西の壁がピカッとなり、ぱーっと傘をさしたように火の玉が光った。「焼夷(しょうい)弾が落ちたぞ」と叫びながら階段を下りたところで家がぐらぐらと揺れ、座り込んだ。屋根の泥や木の柱が頭の上に落ちてきました。昼食の準備をしていた母たちと町内の防空壕(ごう)に向かいました。

 その日、長兄(当時16)は学徒動員中のけがで、爆心地近くの長崎医科大付属病院(現長崎大学病院)に行っていました。父は仕事で大村に向かう途中。兄も父も夜になってようやく帰ってきましたが、兄は唇がただれて口があけられず、脱脂綿で水をあげました。1カ月ぐらいずっと寝ていました。

 10日の昼ごろ、爆心地直下の松山町に住む伯父が訪ねてきました。明くる日、伯父や父らとともに伯父の家族7人を捜しに向かいました。道にはおびただしい数の遺体が転がっていました。爆心地近くの川には遺体が重なり、建物もなくなっていました。

 伯父の家は長崎刑務所浦上刑務支所のすぐ近くにありました。刑務支所の高さ4メートルほどの壁は倒れ、伯父の家は跡形もなかった。伯父は子どもたちに中央に穴の開いた天保銭を持たせていたので、「天保銭があればうちの子だ」と言っていました。それがなければ伯母と子ども6人の遺体は捜せなかった。

 遺体はばらばらになっていました。れんががあたって頭が割れていたり、おなかがはみ出したり。崩れ落ちた瓦をめくれば、まだ火が残っていました。その火を使い、燃え残った畳の上で7人分と思われるかき集めた遺体を焼きました。翌日骨を拾いに行くと、まだおしめをしていた赤ちゃんのおしめにおおわれたお尻と足だけが焼けずに残っていました。

 戦後、熊本大と八代高専に勤めました。被爆者であることは口外しませんでしたが、体験はずっと心から離れなかった。63歳で八代高専を退職する時、記念講演で教職員と学生200人以上を前に初めて被爆体験を語りました。「今、言わないと言う機会はない」という思いに突き動かされたからです。

 定年後は語り部として活動したい、と思っていました。原爆投下直後の写真集や手記などを50年以上前から少しずつ集め、200点ほどになりました。私たちが生きている間にあの時の惨状を語らないと、原爆のことは伝わらない。

 しかし、これからだという時に次々と病に襲われました。今は一人で出歩くこともできず、集めた資料を本棚から取り出すのも難しい。話す機会がなくなってしまい、無念です。

 だからこそ、せめて息子には伝えたい。私の原爆体験を聞いたのは、おそらく退職記念講演の時が初めてだろうと思います。それから「お父さん聞かせて」と言います。少し関心を持つようになったようです。

 私が集めた原爆の資料は息子に活用してほしい。原爆は人間の浅はかな考えを思い知らせるもの。しかし日本が起こしたことを原因とする結果でもある。息子に、そのことも考えてほしい。(聞き手・八尋紀子)

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