[PR]

福岡市(長崎) 熊谷龍生さん(87) 海軍特別救援隊

 1945年5月に海軍特別幹部練習生に志願し、佐世保市の海軍相浦海兵団にいました。8月15日に卒業する予定でした。当時は国を守るという思いしかありませんでした。

 8月15日から27日のほぼ毎日、爆心地近くで犠牲者の火葬にあたりました。上官は「ついてこい」というだけでした。人が腐っていく臭い、焼け死んだ馬。道ノ尾駅から歩いて長崎市内に入ると、街はシーンとしていました。

 結婚して30年たった1984年、妻と一緒に長崎へ行きました。長崎の街には嫌な思い出しかないのに、時間がたつにつれて、もういっぺん見ておきたいと思うようになりました。妻に「こういうところにいたんだ」と伝えておきたいという思いもありました。

 臨時救護所があった場所や爆心地に行きました。すると、懐かしいという思いがわきあがってきた。自分の青春と命をかけて軍に入隊したのに、軍隊で苦しめられた。でも、それも許すという思いに変わったのです。

 1992年に語り部を始めました。これまでに出向いた学校は70校近く。08年夏ごろから語り部をしたことがない被爆者に、同行してもらっています。

 地元の被爆者の会に30人ほどが語り部に登録していますが、実際に活動できる人は少なくなっています。被爆者は死んでいく。語り部を増やさければいけないと焦りを感じるようになりました。語り部をするたびに10人ほどにはがきを出して呼びかけています。

 被爆体験は自己満足では伝わらないと思い、視聴覚教材も使うようにしています。子どもたちの受け止め方が全然違います。いま使っているパワーポイントは次男が作ってくれたものです。

 長崎で被爆後の8月29日から脱毛や血便、発熱が続き、9月1日から40日間入院しました。2000年には胃がんの摘出手術を受けました。だから、長生きするとは思わなかった。「語り部としてがんばれ」ということだと思っています。

 自分は当時17歳で、地獄の様子を記憶に刻み込んでいる。語り部を続けるのは平和を希求する被爆者の責務だと思うのです。できる限りのことを続けたい。(聞き手・岩波精

こんなニュースも