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大阪府岸和田市(広島) 寺田収さん(94) 海軍兵長

 1942年に海軍に入りました。空母「隼鷹(じゅんよう)」で右舷の高角砲の弾を運ぶ仕事をしていました。マリアナ沖海戦で爆撃を受けて多くの戦死者が出る中、生き延びました。同じ年の12月には、長崎沖で敵潜水艦に攻撃されました。敵の魚雷が自分の砲台の下に直撃したけど、そこでもけがはしませんでした。

 隼鷹は動かせなくなったため、横須賀や呉を経て広島の三菱重工の造船所に配置されました。現場に下士官がおらず、自分ら兵長が200人ほどいた兵隊の作業の分担を決める役をしていました。

 8月6日の朝、木炭で動くトラックが兵を乗せて市街地に向かうのを見送ってしばらくすると、「ピカーッ」と光って「ドーン」と大きな音がしました。とっさに机の下に潜り込み、防空壕(ぼうくうごう)に逃げるつもりで外に出ると、工場の屋根もガラスも吹き飛んでいました。

 数日後、「救援として市内へ」と命令され、30人くらいの仲間と一緒に出発しました。「三菱に行けば医者がいる」といううわさが出回っていたのか、市街地方面からやってくる多くのけが人とすれ違いました。顔や腕の皮がただれた人ばかり。市内では、市電のレールを枕に人が寝かされ、半身だけが黒こげになって立っている馬もいました。

 爆心地近くの銀行があった場所では、防空壕(ごう)の中で20人以上が蒸し焼きになって亡くなり、川の中では遺体が潮の満ち引きにあわせて流れていた。遺体を収容しては近くに掘った穴で30人ぐらいずつ荼毘(だび)に付す。そんな作業が28日まで続いたんです。戦争はあかん。人間が築き上げてきたものを一瞬で壊してしまう。

 戦後、病気がちで死にそうにもなったけど、自分が被爆者だという自覚はありませんでした。被爆者健康手帳についても知らなかったんです。

 83年7月に隼鷹の慰霊碑を建てることになり、戦友会に参加しました。そこで手帳の存在を知り、その足で手続きをするため、広島へ行ったんです。係の人に告げると、「なんで今まで来なかったんですか」と言われました。もっと早く手続きをしていれば、造船所で一緒に被爆した200人の兵隊たちの手続きも進んだはずだったと聞かされ、申し訳なく思いました。

 隼鷹の乗組員は2500人ほどでしたが、数えるほどしか残っていません。戦闘の現実や被爆の悲惨さを語れる人は年々減っています。語り伝えなくては、という思いもあるけど、どれほど聞く耳を持ってもらえるか。まずは国の指導者にこそ、原爆の恐ろしさや戦争の過酷さを認識してもらいたいですね。(聞き手・山西厚)

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