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熊本県苓北町(広島) 高橋登喜さん(88) 代用教員=長男義道さん(66)代筆

 おふくろは8年ほど前から認知症の症状が出るようになり、介護施設に入っています。妻と話すんです。一番悲しいことを忘れてしまったいまが一番幸せだよね、って。以前、おふくろは「原爆のことはつらくて悲しい。せめて死ぬ前にあの日のことを忘れたい」と言っていましたから。

 私が母から原爆のことを聞いたのは1992年か93年ごろ。「原爆のことば教えて」と頼むと、母はぼそぼそと僕が聞いたことに答え始めました。その時にメモしたものを残しています。

 母は教員の夫と結婚し、44年11月に私の姉を出産しました。あの日、実父母と妹2人に赤ちゃんを見せるため、広島市の幟町(現・中区)に行きました。

 被爆した後、母は水を求める人たちや遺体をかきわけて川の中を逃げたそうです。そのときのことを「子どもがいたから水を分けてあげられなかった。本当に申し訳なかった。一生ごめんなさいと思っている」と悔やんでいました。

 話しているうちに母は泣き出しました。焼け焦げてむごたらしくなった人と目があったこと、亡くなりかけた人たちが手を伸ばしてきたこと、赤ちゃんを抱いた人の顔が崩れていたこと――。「昔のことは忘れてなかなか思い出せない」と言っていたのに、光景が浮かぶような話を必死にしてくれました。

 そして、「戦争はだめ」「口じゃ地獄はわからん」「今までで一番悲しくてつらい」と何度も言っていました。あの時の母のことを思い出すと、涙が出ます。原爆が投下されるまでは、戦争中でもすごく幸せだったと言っていたので、余計につらいのです。

 母は天草に戻り、定年まで教員として務めました。困っている人を見ると放っておけない人で、分校の子どもが本校に来るときは、うちに呼んで思いっきり食べさせていました。スーパーで子だくさんの家族や貧しい人を見れば、お総菜やらなんやらをたくさん買って渡していました。広島で多くの人たちを見捨てた償いば、しよったんだなと思います。

 泣きながら語ってくれた母。忘れたいけれど、誰かに伝えておかなければ、という気持ちだったんだと思います。そう考えると、次の世代が動かないといけない。

 地元では毎年に原爆犠牲者の慰霊祭がありますが、世話人の被爆者の人たちが少なくなっています。そろそろ2世の会を立ち上げないといけないと仲間と話しています。

 母は被爆してから広島を訪ねたことがありません。母が亡くなったら、お骨と一緒に広島に線香をあげにいかなければ、と妻と話しています。(聞き手・八尋紀子)

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