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埼玉県入間市(広島) 原明範さん(73) 3歳

 当時、私は両親と1歳上の兄と広島市の舟入川口町(現・中区)で暮らしていました。原爆が投下されたとき、自宅近くの床屋で髪を切っていた兄のそばにいたそうです。兄が呼ばれるまで、私たちとは中森君兄弟と外で遊んでいました。

 原爆が落ちた時のことははっきり覚えていません。床屋の天井が落ち、私は他のお客さんに、兄は床屋のおばさんに抱かれて防空壕(ごう)に入ったそうです。

 母によると、外にいた中森君兄弟は全身にやけどをしました。彼らのお父さんが荷車の上に板を敷いて2人を乗せてね、「助けて、助けて」と言いながら江波の陸軍病院の方に向かったと。どうなったのか、分からないそうです。

 8月下旬には家族で父の実家がある岐阜県中津町(現・中津川市)に移りました。以来、高校を出て東京で就職するまで岐阜で育ちました。自分が原爆に遭ったことも、小学校4年の時に授業で「原爆の子」を見る時まで覚えていませんでした。母に「映画を見に行く」と話したら「あなたもそうだ」と言われたんです。

 ずっと被爆者という自覚はなく生きてきましたが、8年ほど前から語り部活動を始めました。2007年に「赤い鯨と白い蛇」という映画について書いた朝日新聞の「天声人語」を読みました。「知っている人がいるうちは、死者はまだ死なない。その人を記憶する人が死んでしまった時、人は死ぬんだ」ということが書かれていました。

 同じころに、イラク戦争のドキュメンタリーを見ました。爆撃を受けた幼い子どもを見た瞬間、「中森君だ」って思いが頭に浮かんだ。顔もはっきりと思い出せないのに、フラッシュバックというんでしょうか。突然中森君のことが頭に浮かんだんです。私は中森君兄弟を60年以上死なせたままにしていたんです。

 彼らのことを伝えられるのは私しかいない。本当は言わなきゃいけない立場だったのに、何も語ってこなかった。申し訳なかったと思いました、だから、語り部として話すときは必ず中森君兄弟の話から始めています。「聞いてくれた人の心の中で生きてくれたら」と思って。

 11年に広島の平和記念式典に出席した時、前日に舟入の辺りを訪ね、「この辺に床屋がなかったか」って地元の人に聞きました。中森君兄弟の最後の場所を知りたかった。でも、分からなかった。

 父は被爆から40年後、膵臓(すいぞう)がんで亡くなりました。私もその2年後に直腸がんに。原爆の影響かどうかはわかりません。

 東京電力福島第一原発の事故後、埼玉県内に住む娘が子どもへの放射能の影響を心配していました。娘は色々と勉強して、ひとまず大丈夫だと思っています。ただ、事故直後は埼玉にもホットスポットができました。娘からすれば、若年被爆した父親ががんになっており、心配をするのは当然でしょう。

 私も、孫に私の被爆が影響しないだろうか、とか。そういう心配は絶えずあります。放射能の影響はわからないことが多いから。

 核兵器も原発も、同じように核爆発を起こすもの。同じだと思います。そして放射線は人体に計り知れない影響を及ぼす。

 だから原発はだめ。廃棄物をどう処理したらいいのかも分からない。そんなものを続けるのは、人間の命をどう考えているのか、ということだと思います。(聞き手・根津弥)

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