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神奈川県大磯町(長崎) 森徹さん(73) 3歳

 原爆が投下されたとき、父は三菱の造船所に働きに出ていました。母と私が川沿いを歩いていると、突然背中が熱く感じました。

 振り返ると長崎の方角がピカッと光っていて、とっさに近くの大木の陰に母と隠れました。爆風で近くの家のガラスが割れました。3歳の時のことですが、木に隠れた一瞬のことははっきりと覚えています。

 私たちがいた所の爆心地からの距離は約6・5キロでしたが、父は爆心地から1キロの大橋工場に勤めていました。ただ、この日は離れたトンネルの工場にいました。「同僚の遺体を処理する日々が続いた」と後で聞きました。

 2年後、家族で佐世保に引っ越しました。小学5年のとき、家で宿題の望遠鏡を作ろうと、ボール紙を丸めていると、手が動かなくなりました。「母ちゃん、手が動かん」と呼ぶと、母が私の体に紫斑が出ていることに気が付きました。皮膚科に連れて行かれ、ビタミン注射を打たれました。紫斑は体中に広がり、全身が動かなくなりました。学校にも通えず、家で寝る毎日がしばらく続き、子供心に「長くは生きられないんだ」と感じました。

 40歳を過ぎて両目が白内障になり、8年前にがんで胃を全摘出しました。原爆症の申請はしていません。でも、3歳で被爆したとなれば影響は大きいのではないか。

 神奈川の日立製作所の研究所に長く勤めました。原発の部署に関わったことはありませんが、私は原発は必要と思っています。人間はずっと進歩していく。核兵器は反対ですが、将来、化石燃料がなくなる時のためにも原発は必要悪じゃないかと思うのです。

 20年ほど前、被爆者健康手帳を取ったのをきっかけに神奈川県原爆被災者の会の平塚支部に入りました。5年前から、地元の小学校の平和学習や修学旅行の事前学習として体験を話しています。私には強い記憶はありません。80代の人は自分の見てきた話をできますが、今は少なくなっています。70代も体験を語っていかなければならないという思いがあります。

 今の子どもたちは話だけを聞いていても飽きてしまう。パソコンなどを使い、映像で見せなきゃ。私はパソコンを使えるので、できることがあるんじゃないかと思っています。(聞き手・根津弥)

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