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東京都町田市(広島) 中本宏子さん(85) 高等女学校生

 1945年3月、東京から母の実家がある広島に母と弟、2人の妹とともに疎開しました。公務員だった父は7月4日に広島に来ました。ずいぶんと無理を言って転勤させてもらったようでした。

 8月6日は爆心地から約3キロの己斐町の工場にいました。外での朝礼が終わって建物に入った瞬間、工場がつぶれました。音は聞こえず、溶接で出る青い火花のような光が見えた。「ピカドン」の「ピカ」を見たんだと思います。記憶はとぎれとぎれ。でも、自力でそこからはい出し、周囲の何人かと連れだってビワを栽培している山を目指して逃げました。

 東京にいた時は空襲でいつも真っ赤な空の下にいましたが、広島は平穏だったから、何が起きたのか分かりませんでした。そのうちに降ってきたのが黒い雨。爆心地に近いところから、中学生の男の子たちが逃げてきた。みんなよれよれでした。

 山を離れ、一人で線路のほうへ。丸裸で赤むけの人たちが歩いていました。自分も顔は血だらけ、全身擦り傷だらけ。みんな、なんとか帰ろうと必死だったんだと思います。

 夕方、家族が身を寄せていた地御前の伯母の家に着きました。父も午後9時半ごろに帰ってきました。父の左の額には、丸めたハンカチがすっぽりと入るぐらいのくぼみがあった。八丁堀で建物の下敷きになり、はい出してきたという。

 中学校に通っていた弟は友だちと野宿して、翌日の午後に帰ってきました。半身やけどで、こぶとりじいさんみたいな水ぶくれになっていました。すでに息のない2歳の娘を抱いていた叔母は、自宅に帰ってすぐに亡くなりました。

 父の額の傷はうみ、身体中に紫色の斑点が浮き出ていました。髪の毛ががさっと抜け、水も飲めない状態になり、8月29日に亡くなりました。49歳の誕生日。父は亡くなる前日、「自分はだめだろうから、お母さんを助けて」と私に言いました。2歳の妹もどんどん衰弱して9月10日に亡くなりました。

 東京にいる時、父は「マッチ箱一つの量で戦艦を一隻沈められるような爆弾ができるようになる」と言っていました。本当に恐ろしい爆弾を落とされたんだと思いました。

 結婚して東京に戻りました。25~30歳の頃、脱力感の塊みたいになった時期がありました。蚊に刺されると、うんでおできになる。今も痕がたくさん残っています。昨年の春、ふわっと意識が薄れて倒れました。

 大学生の孫はぶつけたところがすぐにあざになり、8歳の時に再生不良性貧血で骨髄移植をしました。遺伝性のものではない、と医師から説明されても、「自分が被爆者だからではないか」と不安になります。

 最近、東日本大震災から4年の節目を伝えるテレビ番組を見ました。被災者の男性が「生きているのが申し訳ない。悲惨さはこの口では伝えられないから、人には話さない」と言うのを聞いて、「同じだ」と思いました。

 放射能は得たいの知れない怖さがあります。原発は一人ひとりが電気を節約すればなくせると思います。つらいけれど、「見えない恐ろしさ」を伝えるためには、体験を話したほうがいいと思いました。「全部でなく少しでもわかってもらえればいいんだから」。自分にそう言い聞かせています。(聞き手・伊藤あずさ)

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