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岐阜県可児市 (広島) 河原賢三さん(87) 陸軍特別幹部候補生

 1945年7月、陸軍船舶兵として広島の忠海(現・広島県竹原市)に移動しました。船に爆雷をつけて敵船に体当たりしたり、爆弾を抱えて戦車にぶつかったりする練習を毎日していました。

 8月6日。午前10時すぎだったと思います。上陸用舟艇の操縦の練習をしていると、「広島のほうでひどい爆弾が落ちて、全滅らしいぞ」という情報が入ってきました。「どんな爆弾かわからない。おまえたちは特攻隊で入っていくんだ」「死体の処理やけが人の手当をするように」と言われました。爆心地近くに着いたのは夜中。雨がしとしと降るなか、テントを張って一晩泊まりました。

 爆心地に近い学校から順に回り、けが人の手当てや遺体の処理をしました。肌がむけ、だらっと下がっている人が多く、ヨードチンキで消毒し、食用油を塗りました。一つの教室にけが人を50人ぐらい収容しましたが、次々に亡くなっていきました。「水、水」と言い、軍医が「あの人にはあげていいぞ」と言った人にはコップで飲ませてあげました。そして、亡くなっていくのです。

 負傷者はどんどん亡くなり、どんどん収容されてくる。9日ごろには、生きている人にウジがわいてきました。ウジをピンセットで取るのが、私たちの仕事になりました。

 9月に可児に帰り、今で言う農協に書記として採用されました。47年からは小学校の教員に。現役の間は教室で原爆の話をしませんでした。教師になったばかりの47年に受け持った3年生に話したら、泣き出しちゃって。これはいかんと思ったんです。

 公民館の館長をしていた98年ごろ、「話してくれんか」と頼まれて語り部を始めました。当初は中学校が多かったかな。修学旅行で広島へ行く生徒たちに事前に被爆時の様子を話しました。本格的には退職してから。原爆の恐ろしさは後世に伝えていく必要があり、あの様子を生で見た者が話して聞かせることが大事だと考えたからです。子どもたちにはパネルや写真を見せながら話しています。

 目の前で苦しみ、死んでいった人たちが忘れられないように、と思う。何とか助けてあげられなかったのか。でもね、87歳にもなると、皮膚がはがれ、骨まで見える人たちを手当てした時の鮮烈な思いは薄れていくんです。寂しいです。

 私の体の中には放射能が残っています。いつ発病するかわからない。放射能の怖さはそれだと思う。子どもの時に浴びた影響が大人になってから出てくるという怖さ。

 核不拡散条約(NPT)再検討会議を見ても、原爆の怖さがわかってもらえていないと感じました。被害の大きさを知るためにも、広島と長崎に行ってほしい。資料館を見てほしい。各国首脳も行くべきです。

 被爆地に行った人、我々の話を聞いた人たちには、どんどん周りに伝えてもらいたい。被爆者が亡くなっていく中、2世、3世も被爆地に行って実態を知らせるべきです。見て感じ、新たな語り手になってほしい。(聞き手・岡戸佑樹)

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