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山口県岩国市(広島) 木原道昭さん(85) 県立広島工業学校3年

 学徒動員で三菱重工広島造船所江波工場に通っていました。父もここで働いていました。電車を降りて工場に入ってすぐ、原爆が投下されました。10分前には原爆ドームのところ通っていたので、命拾いしました。

 門を閉められ、外には出られなくなった。工場内の建物はスレートが全部落ちて鉄筋だけ。診療所には、たくさんの人が運び込まれていました。工場を出られたのは日が傾いてから。電車は止まっていて、火もくすぶっている。自宅近くの比治山をめざして、川を3本(本川、元安川、京橋川)泳いで渡りました。服を頭の上に載せて。

 川を1本を渡ったところで、死体を見ました。真っ黒に焼け焦げた子ども。歯と目玉だけは真っ白に残っていました。鶴見橋がかかる川には何十人もの死体。比治山のふもとでは、50体近くの死体を積み上げて焼いていました。あんなのもう見たくない。生き地獄でした。

 戦後、福岡の貿易専門学校に入り、短大、西南学院大へと進みました。米軍板付基地の近くに下宿していたころ、友人に同基地の付属基地「春日原ベース」内の教会に連れて行かれ、「この人は原爆に遭っている」と紹介されました。カーネルさんという牧師が「申し訳ない」「何かできることはないか」と繰り返し言いました。それから、カーネルさんは私に毎月5~10ドル渡すんです。当時で言ったら大金。何度も断ったんですが、大学卒業までずっと。恩人です。亡くなったと聞きましたが、どこにお墓があるのか分かりません。

 その後、友人に誘われて米軍岩国基地で働くことになりました。生活費を稼がないといけなかったから。仕事は通訳と会計士。基地内では「原爆は仕方ない。日本人には謝るな」と上から言われているということでした。でもね、米国人はすごく親切だった。一日一緒にいたら友人なんです。

 今も岩国基地で一緒に働いていた米国人家族と、手紙のやりとりをしています。一番手紙が来るのはニューヨークに住むライニア夫妻。原爆のことは話しません。多くは家族のことです。(聞き手・小野太郎)

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