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 東日本大震災の被災地、宮城県でこの春、一人の中学教師が教壇を去った。あの日、石巻市内の小学校にいた娘は、津波の犠牲になった。自らを省みて考え続けた。どうすれば学校は子どもの命を守れるか。社会全体に問いかけるため、新たな歩みを始めた。

 石巻市釜谷。壁が崩れた校舎の前で、佐藤敏郎さん(51)は見学者に語る。

 「みなさんが今、立っている場所は、街でした。学校があって家があった」

 かつての体育館のすぐ裏手にある小高い山を指す。

 「授業でも登ったことがあった。震災時、山をよじ登らせた学校もあったのに、大川小では約50分校庭から動かなかったのです」

 釜谷は北上川の川辺。河口からは約4キロだが、標高1メートル余の低地だ。あの日、校内に教職員11人と児童がいた。地震は午後2時46分。屋根まで達した津波で止まったとみられる校舎内の時計の針は「3時37分」。逃げる余裕はあった。

 だが先生の引率で移動を始めたのは津波襲来の直前。向かった先は山ではなく、橋のたもとの交差点。津波が迫る時、川への接近はむしろ危険だった。移動中に襲われ、学校近辺で助かった児童は4人。全校で児童74人、教職員10人が犠牲に。6年生だった佐藤さんの次女、みずほさんは級友とともに亡くなった。

 同じ時、佐藤さんは約10キロ離れた勤務先の女川第一中学校(現女川中)にいた。生徒とともに高台の学校からさらに坂を上がり、校内での犠牲は免れた。

 震災後、いくつかの事実がわかった。助かった教諭は山への避難を口にしていた。迎えに来た親も避難を呼びかけた。子どもたちにも山へ逃げようとの声があった――。危機感はあったのに学校が危機に取り残された。悩んだ末、ある考えにたどり着いた。「学校が子どもの命を守る組織になっていなかった」

 地震の後、大川小の先生たちはおびえる子どもを慰め、寒さをしのごうとたき火の用意も始めたという。

 子どものことを考えなかった先生は一人もいない。同じ教師として、その確信は揺るがない。「しかし組織として、チームとしてはどうだったか」

 整備された山道はなく、駆け上…

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