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核といのちを考える 被爆70年 願い(5)

 焼け野原で、木はほとんどなかった。そして、猛烈な炎天下。道ばたに積まれた遺体は、すぐに腐っていった――。井上喬夫(たかお)(88)の脳裏には、今も広島の惨状がこびりつく。1発の原子爆弾は、街を、暮らしを、命を一瞬で奪い去った。

 70年前の1945年8月6日朝。陸軍の通信兵だった井上は、広島城近くの本隊から2キロほど北にいた。前日に電話線を引く作業を命じられ、7人の班で1泊していた。広島城の方角がピカッと光ると、轟音(ごうおん)が響いた。井上は小高い丘に駆け上がった。炎と煙のなかに、うっすらと広島県産業奨励館(現・原爆ドーム)や福屋百貨店が見えた。

 井上らは京橋川の土手に沿って本隊に戻ろうとしたが、市中心部から逃げてくる数え切れないほどの市民とぶつかる。顔がやけどで膨れ、目が見えなくなった人。骨折しているのか、手足をぶらつかせている人……。「水をくれ」「赤ん坊を捜して」。口々に言い、多くが死んでいった。

 木陰をさがし、生きる可能性がある人たちを運び続けた。本隊に戻れたのは数日後。兵舎は跡形もなくなり、黒こげの遺体が散乱していた。本隊そばの広島城は爆心地からわずか1キロ足らず。城の内外にいた部隊は壊滅していた。

 しばらくすると、兵士の家族がぽつぽつと本隊があった場所を訪れるようになった。「生き残りはいないんです」。井上らはそう言い、誰のものか分からない数片の遺骨を布に包んで渡した。それでも、家族は納得して持ち帰った。

 「こんな戦争は二度としてはいけない」。朝日新聞が被爆70年の気持ちを聞くアンケートに、井上は思いの丈をつづった。つらい記憶を思い出すのが嫌で、参列を見送ってきた6日の平和記念式典。今年も広島県福山市の自宅のテレビ前で手を合わせ、戦友らの死を悼む。

■「どうして人間は争いを続ける…

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