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核といのちを考える 被爆70年 願い(6)

 1945年8月6日の原爆投下から70年。被爆地・広島は6日、鎮魂の祈りと「核なき世界」への願いに包まれた。真夏の強い日差しのもと、手を合わせる高齢の被爆者たち。被爆者健康手帳を持つ人の平均年齢は80歳を超え、焦土と化した街の惨状を鮮明な記憶にもとづいて語れる人は減りつつある。

 新木(しんき)聖子(72)は東京都練馬区にある自宅で70年の節目の日を迎えた。広島に原爆が投下された時刻と同じ午前8時15分、テレビから「黙禱(もくとう)」の声が響く。隣には初めて8月6日の平和記念式典を見る孫の丸山亮忠(りょうた)(9)。その小さな手を新木は両手で包み、目を閉じた。「私の気持ちを引き継いでもらえるかな」

 広島の上空約600メートルで原爆が炸裂(さくれつ)したとき、新木は2歳。記憶にはないが、医師だった母が自宅の庭で抱いていた新木に白衣をとっさに掛け、覆いかぶさったと後に聞いた。その母は新木が物心ついた頃から嘔吐(おうと)を繰り返し、リウマチ、子宮筋腫、脳梗塞(こうそく)を患った末に60歳で亡くなった。37年前のことだった。

 幼児(若年)被爆者の新木も幼い頃から血液疾患や腎臓病など多くの病に悩まされてきたが、被爆時の記憶がなく、積極的に語ろうとはしてこなかった。その新木の背中を押したのが、亮忠だった。

 新木は今春、一緒に散歩をしていた亮忠から尋ねられた。「原爆、どこで遭ったの?」。早いかなと思いつつ、新木は答えた。「あなたのひいおばあちゃん、つまり私のお母さんに守ってもらったの」。その日、朝日新聞から届いた被爆70年アンケートに亮忠へのメッセージをつづった。「もう少し大きくなったら、たくさん伝えたい」

 2カ月後の6月、新木は約150人の被爆者でつくる「被爆者練馬の会」の役員に就いた。「あとをつないでほしい」という名誉会長の井上秀雄(90)ら先輩の思いを感じ取った。新参者の自分に何ができるのか分からないが、母の言葉は胸に刻み込んでいる。新木は決めた。「まだ、灯火(ともしび)を消すわけにはいかないから」

     ◇

 名古屋市南区で暮らす恩田明彦(72)も広島で被爆したときの記憶はない。軍人だった父は当時をほとんど話さず、56年に結核で他界。母は67年に逝った。

 それから13年ほど経った頃、遺品の整理中に古びたノートを見つけた。――一瞬で家が崩れて倒壊し、熱風が顔をなめた――。父の字が並んでいた。

 その後、知人から求められて高校生の前で語った。両親の体験を伝え続けるうち、自然と自分の言葉になっていった。人前に立った回数はすでに20回以上。ともに語り部の活動をする堀三郎(87)=名古屋市守山区=は「先人の思いを継がなきゃいかんと自覚したんだろう。よく立ち上がってくれた」と喜ぶ。恩田はアンケートにも「私がしなければ」と書きつけていた。

 広島が70回目の原爆の日を迎…

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