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本田魂さん(1944年生まれ)

 7月10日開幕の全国高校野球選手権長崎大会。開会式の舞台は長崎市松山町の県営野球場だ。甲子園をめざす球児の夏が始まる。

 70年前の夏、この場所は駒場町という町だった。長崎原爆戦災誌によると、爆心地からの距離は110~500メートルで、原爆投下の瞬間に町内にいた人で即死を免れたのは1人だけだった。1960年に松山町に編入。現在は住宅は一軒もなく、球場のほか、ラグビー・サッカー場やプールが並ぶ地区となった。文字どおり、消えた町だ。

 長崎市西海町の屋根工事会社「長崎レインボーいらか」会長の本田魂(ほんだたましい)さん(71)=時津町=は70年前、祖父母や母と一緒に駒場町で暮らしていた。母や祖母は原爆で亡くなったが、1歳だった本田さんは町外にあった防空壕(ごう)にいて命は助かった。「(壕内の)畳の下敷きになっていたと聞いた」

 本田さんに原爆の記憶はない。だが、駒場町で育った幼少期からのことを語ってくれた。

 本田さんの話を聞くのに先立ち、語り部の下平作江(しもひらさくえ)さん(80)が岐阜県の中学生に体験を語るのに同席した。下平さんは本田さんの親戚で、被爆当時、一緒に暮らしていた。

 「1945年8月9日。いつものようにサイレンが鳴ります。私は赤ちゃんをおんぶして、妹の手を引いて……」。この「赤ちゃん」が本田さんのことだ。下平さんは本田さんらと、川向かいの油木町にあった駒場町住民用の防空壕(ごう)に逃げ、そこで被爆した。下平さんは「(赤ちゃんと妹との)3人でがたがた震えて夜を明かしました」と語った。

 本田さんは直接、自身の状況を聞いたことはなく、親戚同士で話しているのを聞く程度だったという。朝から出ていた空襲警報が解除され、防空壕から自宅に戻った母、貞子(さだこ)さんや祖母は犠牲となった。本田さんは「(下平さんが)いなかったら、一緒に自宅に連れて帰って(自身も犠牲となって)いた」と話す。

 本田さんの名前の由来は「大和魂」だ。祖父の故瀧川勝(たきがわまさる)さんが名付けた。本田さんの父は戦死、母は被爆死し、両親を1歳で失った。父代わりに育てたのが瀧川さんで、本田さんも「おやじ」と呼んだ。

 長崎原爆戦災誌によると、瀧川さんは被爆当時、爆心地そばの駒場町町内会の副会長だった。被爆後は町内の生き残りの人々にバラックの建設を呼びかけたという。下平作江さんによると、原爆翌年の46年に、瀧川さんや下平さん、本田さんらは駒場町に戻って暮らし始めたという。本田さんも「浦上川沿いにもバラックが立ち並んでいた」という光景を覚えている。

 駒場町には45年10月に、進駐軍が簡易飛行場を建設した。「アトミック・フィールド」と呼ばれた。戦災誌によると、長さ650メートルほどで、1週間ほどで形ができたという。後にその跡地からは骨が出てきた。本田さんは「たぶん、骨もそのまま押し潰してしまったのでしょう」と語る。

 「覚えていることは、じいさん(瀧川勝さん)が浦上川で投網をしよったこと。自分も一緒に行っていた。網投げてひくとき、骨がずっとあがってくるとですよ」と本田さんは振り返る。原爆で亡くなった人などの骨だ。地面を掘っても骨が出てきた。

 駒場町内で出た骨は五右衛門風呂に入れていたが、二つの五右衛門風呂にいっぱいになった。瀧川さんらは47年には町内に納骨堂をつくり、そこに骨を移した。本田さんも「骨を洗って、納骨堂に納めていた」という。その後、小さな寺(霊安所)も作ったという。

 本田さんによると、駒場町の納骨堂にあった骨は、現在、平和公園わきの市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂に納められているという。駒場町は体育館建設などで立ち退きとなったためだ。現在、祈念堂の階下に納骨堂の碑がひっそりと置かれている。碑には駒場町から移転されたことが記され、瀧川さんの名前も刻まれている。

 本田さんは、原爆で児童の多くが亡くなり、現在、被爆校舎が残る長崎市立城山小学校に通った。3年の頃からあったと記憶しているのが「原爆学級」だ。被爆した子どもたちを集めたクラスだった。

 時々、授業中に2人ずつくらい…

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