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坂本亀良さん(1929年生まれ)

 「わしは本当に歯がゆい」

 長崎市稲田町の坂本亀良(さかもときよし)さん(86)から聞いたこの一言は、私の胸にずしんと響いた。

 長崎原爆から70年目の夏を迎えても、核兵器廃絶は遅々として進まず、日本の平和がこれからも続くのかと不安を覚える……。そんな状況を「歯がゆい」と感じる被爆者はきっと、坂本さんだけではないだろう。

 坂本さんは国鉄長崎駅診療所で勤務中、爆心地から2キロで被爆した。1991年には、平和祈念式典で被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げた。

 核兵器の廃絶と世界平和のため、世界中の人たちと手を取り合って命の限り努力することを被爆者を代表してお誓い申し上げます

 思いは当時と変わらないが、残された時間は短くなったと感じている。語り部をしていない坂本さん。まず私にできることは、坂本さんの体験や思いを聞き、書き残すことだと考え、じっくり話を聞かせていただくことにした。

 坂本さんは大阪市で生まれた。名前は父亀太郎(かめたろう)さんに由来する。「亀」の字は手本や規範などを意味する「亀鑑(きかん)」にも用いられ、「人を一番褒める字」と坂本さん。4歳違いの弟は亀美明(きみあき)さん。「珍しい名前で、初対面の人にもすぐ覚えてもらえる。親からいただいた名前を大事にしています」。親戚から亀太郎さんに顔が似ているとも言われる。

 母千里(ちさと)さんは坂本さんたちを、当時は珍しかった幼稚園に通わせてくれる教育熱心な女性だったという。料理が上手で、高菜を油で炒めてゴマをまぶしたおかずは坂本さんのお気に入りだった。貴重になり始めていた白米とよく合ったという。

 だが1934年、坂本さんが5歳のときに千里さんが病気で亡くなった。「男手一つでは子どもを育てられない」と、亀太郎さんは長崎市稲田町に住んでいた、おばの一家に坂本さん兄弟を預けた。そして37年、亀太郎さんも病気で亡くなり、坂本さんは8歳で両親を失ってしまった。

 早くに両親を亡くした坂本亀良さんだが、弟亀美明さんとは一緒だった。「兄弟が離ればなれになるのはかわいそう」と配慮してくれたおばのおかげだったという。おばにも4人の子どもがいて、まるで6人きょうだいのように育った。10歳年上だった長女は特によく面倒を見てくれたという。

 旧満州(中国東北部)で働いていた別のおばは毎月、坂本さんたちの養育費を仕送りしてくれた。「外地は給料が良かったんでしょうね。来年は伯母さんの50年忌。感謝の気持ちは今も忘れない」と坂本さん。

 だが、次第に国内では物不足が深刻になった。配給だけでは足りず、坂本さんも家族のために諫早方面の農家へ買い出しに行くこともあった。30キロくらいの荷物を背負い、蛍茶屋を経由して徒歩で帰った。乗り物では警察に見つかり、食料を「闇」で買ったことがわかって逮捕されてしまうかもしれない。「万が一見つかったら、と暗い夜道を歩いて帰りました」

 坂本さんは「社会に出た時、勉強をしていないと出世できない。もっと勉強したい」と考え、定時制の長崎市立長崎第二商業学校に入学した。

 昼間は、国鉄長崎駅に隣接していた診療所で働いた。国鉄職員専用の診療所だったが、機関士や駅員、建築や電気の技師など毎日100人ほどが訪れた。坂本さんは、薬剤師が処方した薬を紙に包んだり、受付や掃除などの雑用を担ったりしていた。

 当時、数少ない移動手段だった国鉄。その職員の健康を管理する診療所では、優先的に薬などが手に入ったという。医者が2人、看護婦が8人ほどいて、X線などの設備も充実していた。

 45年8月9日も診療所へ働きに行っていた。薬品庫としても使っていた近くの防空壕(ごう)に入り、補充する薬品を選んできたときだった。電気がなかった防空壕の中で、急にピカッと雷のような強い光が後方から差し込んだ。

 ドンッと大きな音がして、坂本…

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