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 戦時中、本州への物資輸送の要だった青函連絡船は、米軍機から繰り返し攻撃を受け、陸奥湾や津軽海峡で全滅した。船員だった函館市富岡町1丁目の小木光雄さん(86)は、頭上から響き渡る機銃の轟(ごう)音を忘れることができない。

 小木さんは1929年、同市桔梗町で生まれた。海軍の兵隊にあこがれたが、父親に反対された。そこで、小さいころから「かっこいい」と眺めていた青函連絡船に乗ろうと、44年4月に青函連絡船の船員養成所に入り、45年4月から第六青函丸(2802トン)に配属された。ボイラーに石炭をくべる火手(かしゅ)を務めた。

 当時、青函連絡船の船員は2昼夜乗船し、2昼夜非番を繰り返す交代制の勤務だった。小木さんは同年7月13日に勤務を終え、14日は非番だった。朝、空襲警報が鳴った。米軍機に攻撃され、炎上・沈没する松前丸や第十青函丸などが高台から見えた。一方的に攻撃される様子を見て、「日本の戦闘機が1機でも飛んでいたら……。でも、そんな力はもうないんだろうな」と思った。沈んでいく船をただ見つめることしかできなかった。第六青函丸は青森市野内の沖合に沈んだ。

 14~15日の空襲で連絡船1…

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