[PR]

 昭和天皇が戦争終結を告げた「玉音放送」から70年。当時、徹底抗戦を主張した陸軍将校らがこの録音原盤を奪おうとした「宮城(きゅうじょう)事件」が起きたことを知らない世代も増えた。終戦の日を前に、現場にいた元近衛兵らは「二度と戦争をしてはいけないという思いを伝えたい」と話す。

 「録音盤を探せ」。1945年8月15日未明。皇居の警備にあたっていた元近衛兵の和久田正男さん(92)=浜松市=は、上層部からそう指示され、実弾を渡された。

 その少し前、1発の銃声が響き、続いて「師団長がやられた」という声があがった。

 和久田さんは昭和天皇の住まいがある吹上御苑内に入り、蚊帳を引きちぎって隅々まで捜索した。武装解除のため、皇宮警察官の銃も取り上げた。「録音原盤を探す理由は分からなかったが、命令に従うことが陛下をお守りすることになると信じていた」と振り返る。

 結局、反乱軍は鎮圧され、録音原盤は「玉音放送」として終戦を伝えた。原盤探しも偽の命令だったと知ったのは、終戦からしばらく経った後だった。

 毎年、終戦の日が近づくたび、当時のことが頭によみがえる。そして思う。「録音原盤が見つかっていたら、玉音放送が流れなかったら、平和な日本はなかった」と。戦争を止めようとした昭和天皇の思いを、今こそ伝えたいと願う。

 同じ15日未明。当時の宮内省で雅楽を学んでいた嶋田英康さん(87)=東京都調布市=は防空監視隊員として、皇居内にある建物の屋上で敵機の警戒にあたっていた。

 防空本部から呼び出され、はしごで地面に下り立った瞬間、「誰だ!」と背後から声をかけられた。同時に、尻に鋭い痛み。近衛兵が銃剣を突き付けていた。

 そのまま防空本部に連行されると、そこには宮内省の職員ら約50人が数人の近衛兵に銃剣を突きつけられていた。

 1人の将校が軍刀で電話線を切り始めた。外部との連絡がとれないようにするためだった。嶋田さんは、身動きがとれず、反乱軍が鎮圧される明け方まで立ったまま過ごした。

 同日正午。その防空本部で、終戦を告げる昭和天皇の放送を聞いた。「勝利を信じていただけに、無力感にさいなまれた」。泣きながら、日本が負けたのだと悟った。

 夕方になり、宮内省職員から、陸軍将校らによる反乱だったと知らされた。昨日まで親しくしていた近衛兵が、命令とあらば銃剣を突きつける。「個人の思いとは関係なく、仲間にも銃を向けねばならなくなるのが軍隊であり戦争だ」

 宮内庁が今月1日、新たに公開した玉音放送の原盤音声を聞き、国会で審議が進む安保関連法案のことが頭をよぎった。

 「二度と戦争をやらないという戦後日本のあり方が否定されかねない。戦争になれば一方的に自由を奪われる。同じ思いを子や孫には二度とさせたくない」(渡辺洋介、島康彦

     ◇

 〈宮城(きゅうじょう)事件〉 1945年8月14日夜から15日朝にかけ、戦争継続を求める一部の陸軍将校や近衛師団参謀がクーデターを謀った。反乱将校らは、同調を拒否した近衛第1師団長の森赳(たけし)を殺害したうえ、偽の師団命令で皇居(宮城)や放送会館を占拠した。14日深夜に録音された「玉音放送」の原盤を奪おうとしたが、15日朝に鎮圧され、玉音放送は15日正午にラジオを通じて流された。昭和天皇による戦争終結の「聖断」から、玉音放送が流されるまでを描いた映画「日本のいちばん長い日」が公開中。