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(ザ・コラム)稲垣えみ子・編集委員

 今回、とてもうまく書く自信がありません。でもとにかく一生懸命書きます。

 私、朝日新聞を退社することになりました。このコラムも今回が最後になります。

 念のためですが、理由は会社への不満などではありません。人生の後半戦をどう過ごすか、自分なりに考えた結果なのです。

 得ること、拡大することばかりを考えて生きてきました。でも平均寿命の半分を過ぎたころから、来たるべき死に向かい、閉じていくこと、手放すことを身につけねばと思うようになりました。大変なギアチェンジです。そのための助走として会社員人生に50歳で区切りをつけ、もがきつつ再出発したいとずっと考えてきました。

 そろそろ実行に移そうとしていたとき、思いがけずこのコラムを担当することになったのです。スタートはちょうど1年前。あのときを思い出すと、今も呼吸が浅くなり、胸が苦しくなる自分がいます。

     ◇

 朝日新聞は二つの大きな誤りを認め、その姿勢を批判するコラム掲載を拒んだことも明らかにしました。なぜそうなったかは考え続けねばなりませんが、世間にどう見られているかは明らかでした。「自分たちが正しいと思うことを主張するためには、事実を曲げることもいとわないのか」

 口をぱくぱく動かしても言葉が出てこなくなりました。信用のない人間が書くもっともらしいことなど誰が読むでしょう。お前何様やという声が聞こえてきます。

 奇策しかありませんでした。「自分のことを書く」。アフロにしたら突然モテ始めたというバカバカしい実話をつづりました。それこそ「お前誰やねん」という内容ですが、自分を笑うなら許されるかもと思ったのです。原稿を出したのは締め切り直前。編集長は驚き困っていたけれど「時間がない」と押し通しました。ゴメンナサイ。でも私がいちばん不安でした。

 結果は思いもかけないことでした。

 「元気が出た」とメールや手紙が大量に来たのです。闇の中、その声だけが灯台でした。その後も自分のことを書きました。薄っぺらい我が身をさらす恐ろしさ。批判もありました。でも世の中のことであっても「だれかのこと」でなく「自分のこと」として、せめて泣きたくなるような実感をつづらねば相手にしてもらえないと追い詰められた気持ちだったのです。

 振り返れば、わからないということ、だから悩むのだということ、苦しいが生きていかねばならないということ――そんなことばかり書いてきた気がします。そのたびに多くの感想を頂きました。悩みや体験がつづられた一つ一つの文章に人生がありました。何度も読み返しました。

 28年の記者生活でこれほどの反響を頂いたことはありません。一体なぜなのか。

 もしかして、私はマスコミにいながらコミュニケーションをしてこなかったのかもしれない。新聞とは正しいことをキチンと書いて伝えるものだと思ってきました。でもそうしてがんばって書いた記事の反響は驚くほど少なかったのです。わずかな反響は苦情と訂正要求。「正しいこと」には別の「正しいこと」が返ってくる。それは果たしてコミュニケーションだったのか。

 自分のこととして世の中を見たこの1年、痛感したのは何が正しいかなんてわからないということです。皆その中を悩みながら生きている。だから苦しさを共有するコミュニケーションが必要なのです。なのに分からないのに分かったような図式に当てはめて、もっともらしい記事を書いてこなかったか。不完全でいい、肝心なのは心底悩み苦しむことではなかったか。

     ◇

 そして、新聞は誰に読まれているのかを初めてリアルに見た1年でもありました。路上で、電車で、店で、山で「朝日新聞の人?」と声をかけてくれた方は中学生からお年寄りまで泣けてくるほど多彩でした。人々が分断され攻撃的な言葉をあびせあう今、これほど広い人に読まれる新聞は奇跡です。ああそこから離れる寂しさよ!

 人生はいつも、失うときに初めて肝心なことに気づくものなのかもしれません。

 でも、寂しさを抱きしめて生きていこうと思います。寂しいから人はひかれ合う。きっと新たな出会いがあると信じて。