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 9月10日、マツダスタジアムであった中日戦で、祖母の草田カズヱがホームランガールを務めた。今回は祖母と野球の関わりについて紹介したい。

 祖母にとって野球という存在は、「生きる」ことと同義だった。それは大げさなことでもなんでもなく、戦後を、つらい思いをしながら生き抜いてきた祖母を支えた、かけがえのない存在だったように思う。

 1945年8月6日。祖母は15歳の時に、広島市内の学校へ登校中に被爆した。背中にはガラス片が突き刺さり、それから10月までは足も立たず、両足には今もケロイドが残っている。のちに祖母の弟に当時の話を聞いた時には、「包帯を変えるときに張り付いた皮膚が一緒にはげて(祖母が)悲鳴をあげとったのが忘れられん」と言っていた。ようやく歩けるようになった祖母が女学校に戻ると、学校の先生が「ソフトボールを始めたい」と言い出したそうだ。もちろん当時、まわりにはソフトボールをやっている女性はおらず、「女性が野球をやるなんて」「そんなことするなら家の手伝いでもしなさい」と反対されたと祖母は記憶している。

 祖母も男性のまねをすることに抵抗があった。しかし若い女性として、足にけがの痕が残る祖母はおしゃれをすることもままならず、肌を見せることがつらかった。そんな恥ずかしさを吹き飛ばしてくれたのがソフトボールだった。祖母は1946年の秋に創設された安田高等女学校・ソフトボール1期生の主将、一塁手で5番を任された。焼け野原になってさら地になった学校のグラウンド。ユニホームはおろかグラブもない。それでも祖母たちは翌年、県大会で初優勝。決勝点のホームを踏んだのは祖母だったという。

 姉(当時・祖父の妻)が亡くなったあとに、祖母は一回り上の祖父の後妻に入った。そんな2人をつないだのが『カープ』の誕生だった。創設当時からカープを応援していた祖父と、よく一緒に球場へ観戦に行ったという。旧市民球場の前に本拠地として使われていた広島総合グラウンドだ。野球のルールがよく分かっている祖母とのデートはいつも盛り上がったという。当時は10連敗なんて当たり前。話を聴く中で、「今は良いほうなんよ」と苦笑する姿も見受けられた。

 そんな祖母が、ホームランガールを務めることが決まった。

(続く)(タレント・小説家、うえむらちか)

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