【動画】「一生懸命してんじゃが…」と話す原爆被爆者友の会の元会長=岡本玄撮影
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竹下敦さん:西城町原爆被爆者友の会の元会長

 《被爆70年までは頑張ろうと思ってきましたが、役員もいない状況で解散せざるを得ない現状です。活動を次世代につなげる難しさを痛感しています。》

 庄原市西城町の竹下敦さん(84)は、長年関わった西城町原爆被爆者友の会が解散することへのやるせない思いを、朝日新聞社の70年アンケートに記した。

 4月上旬、竹下さんは日陰にまだ雪が残る山道で車を走らせ、会員宅に朝日新聞社のアンケートを配っていた。「郵便で送ったらそれっきり。家を訪ねたら確実に渡せるし、待っていてくれる人もいる」。ふだん、こうして会員の家を一軒一軒訪ね、文書や資料を届けている。

 午前9時ごろに自宅を出て、20分ほどで1軒目に着く。「ごめんください。調子はどうですか」。玄関先で声をかけると女性が出てきた。「主人は人工透析で、お母さんはデイサービスへ。渡しておきますね」

 別の家では、アンケートを受け取った女性(85)が、せき込む竹下さんに「まー、上がってきんさい。用心せにゃいけん」。昼までに約10軒を回った。「アンケートは田舎に住む被爆者の思いを広く伝える良い機会。協力せにゃ」

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 中学2年のとき、土橋で建物疎開作業をするため、広島駅付近で電車を待っていて被爆。4カ月あまり寝込んだ。「広島で救助などにあたった方々の多くはもう亡くなった。私は寝ていたおかげで、今まで生きてこられた」。そんな思いで被爆者運動に取り組んできた。西城町は爆心地から90キロほど離れているが、原爆投下後、救助活動のために広島へ行き、被爆した消防団員らも多いという。

 友の会の発足は、県原爆被害者団体協議会の結成と同じ1956年。平和記念式典に会員を送り出したり、被爆者団体の新聞を配ったり。定期的に会員同士の懇親会も開いてきた。76年には、会員50人の被曝(ひばく)体験をまとめた手記集「夾竹桃(きょうちくとう)」を発行した。

 差別を恐れて被爆者と言い出せない。心ない言葉をかけられた――。そんな会員の悩みも聞いてきた。「のどかな農村風景を眺めていると、核兵器と縁がなさそうに見える。でも被爆者は心身の不安と向き合い、暮らしてきたんです」

 今春、日本被団協が核不拡散条約(NPT)再検討会議へ被爆者ら50人を現地に派遣した。「私たちの代わりに米国へ渡り、核廃絶を訴えてくれる」と、署名やカンパ集めに協力し、農村から世界を見据えた。

 だが、高齢化で発足時に約450人だった会員は約100人に。2005年ごろに解散の話が持ち上がった時、竹下さんは「先人が築いた会を途絶えさせるのはしのびない」と会長を引き受け、存続させた。

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