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服部道子さん:埼玉県原爆被害者協議会理事

 《自分の体験を事細かく、本当のことを継承し続ける決意です》

 服部道子さん(86)は朝日新聞社の70年アンケートにこう記した。今年8月、自費出版した「『あの日』ピカドンが」(文芸社)で被爆体験を詳細につづった。

 「私はあの日、あの時、広島にいて、見て、触った被爆者です。死にたくなかったあの人たちの気持ち、ホンマのことを伝えなければならない」

 そんな気持ちで筆をとった。

     *

 1929年に東京で生まれた。父は商船会社に勤めていたが、軍関係の物資を運搬するようになると拠点が横浜から広島に変わった。なかなか東京に帰れなくなったため、家族が会えるように、と40年に広島の皆実町に引っ越した。比治山高等女学校(現・比治山女子中学・高校)へ進んだが、4年で繰り上げ卒業になり、45年5月から陸軍船舶司令部(暁部隊)の教育船舶兵団司令部(仁保町)で見習い看護師として働き出した。

 8月6日午前8時15分、教育船舶兵団司令部で朝礼を終え、防火用水にボウフラがわいていたので水を換えようとバケツをもって水道に向かった時だった。閃光(せんこう)が走り、大地が震えるような音がした。「やられた。さよなら」。死ぬと思いながら気を失った。

 幸いにも大きなけがはなく意識を取り戻し、教育船舶兵団司令部で治療を手伝った。体が焼けて骨が見える人、はがれた皮膚が垂れ下がった人、目玉が飛び出ている人……。また、気を失いそうになった。がたがた震えていると、軍医に「ここはもう戦場と化した。そんなことで銃後の守りができるか」と怒鳴られた。

 負傷者の体に刺さったガラスを引き抜いたりしていると、ひどいやけどをしながら、赤ちゃんを背負った母親が来た。背中の赤ちゃんは首がなかった。思わず「赤ちゃんの首がない」と言うと、母親はその場で絶望したように力尽きて死んだ。「自分の一言が、母親の命を奪ったのでは」と後悔した。

 戦後は家族とともに転々とした。青森では「こじきが来た」と追い払われた。父は46年4月、体に紫の斑点が出て、宮城県の無医村で死んだ。その後、福島県で代用教員をしたが、被爆の影響で体がだるいのを理解されず、「怠け者」と非難された。

 《妹は大腸がんで昨年死亡。偏見を嫌い、手当も放棄した》

 静岡に嫁いだ妹は被爆からの偏…

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