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氏原和雄さん(1930年生まれ)

 今年の8月8日、戦後70年の節目として諫早市老人クラブ連合会が初めて企画した原爆・戦争体験を語り継ぐ会が市文化会館で開かれた。約1千人が集まった会場には、救護被爆の体験を語るために招かれた氏原和雄(うじはらかずお)さん(85)=諫早市高来町=がいた。

 学徒動員で働いていた諫早駅で、長崎から救援列車で運ばれた被爆者の救護にあたった。当時は、被爆者の衣服などに付いた残留放射性物質の影響を受けるとは思わず、自分が被爆した意識はなかった。

 しかし、40歳を過ぎたころ、7歳だった三男が白血病で急逝。主治医から、父親である氏原さんの被爆が原因ではないかと指摘され、自らの被爆に向き合うことになった。

 これまで何度も学校などで体験を語ってきたが、今回は三男が死亡したことに多くの人が関心を寄せたと感じた。「被爆70年がたち、直接被爆していない後世の世代にも影響を与える核兵器のおそろしさに目が向けられているのではないか」

 氏原さんは小江(おえ)村(現・諫早市高来町)に代々続く農家の長男に生まれた。今は整備された農地が整然と並ぶが、以前は小さな棚田が斜面を覆い、零細農家が多かった。父親は今の農協に勤めていて、田んぼは人に貸していた。

 小江尋常高等小学校に入学した1937年、盧溝橋事件があり、日本と中国は全面的な戦争に突入していった。41年12月には太平洋戦争が始まった。学校では、天皇のために命を捧げるよう教えられた。遊びは戦争ごっこだった。「戦争の渦に巻き込まれた子ども時代だった」と振り返る。

 当時は満20歳で徴兵検査を受けて入営することになっていた。戦況悪化で後に徴兵年齢は引き下げられるが、氏原さんは徴兵年齢前に志願して軍隊に入るつもりだった。「自分の身を投げ捨てるようなことをするなんて、今だったら考えられないけれど、そう教え込まれていた。教育っておそろしい」。氏原さんは遠い目をしてつぶやいた。

 戦争中は灯火管制がおこなわれ、自宅では夜になっても電気をつけることがままならず、氏原さんは「本も読めず、勉強なんかできなかった」と話す。さらに旧制諫早中(現・諫早高)に進学するころには、頻繁に空襲警報が発令された。最初は自宅裏に掘った防空壕(ごう)に急いだ。しかし、小江村(現・諫早市)に爆弾が落とされることはなく、やがて電気を消すだけで逃げなくなった。米軍のB29は海軍工場があった大村市や対岸の福岡県大牟田市の軍需工場を狙い、その上空で照明弾が明るく街を照らした。「バーッと光って、きれいだと感じるほどだった」

 通過する米軍機を見物に行くこともあった。B29は10機、20機と編隊を組み、空の高い場所を悠々と飛んでいた。迷彩を施すわけでもない機体は白くキラキラと光り、一筋の飛行機雲を空に残していった。日本の高射砲隊が放った砲弾はまったく届いていなかった。決して口には出せなかったが、「負け戦だ」と感じていた。

 44年11月21日午前10時ごろ、氏原さんは自宅で空襲警報を聞いて外に出た。多良岳の上で、B29の編隊に日本の戦闘機、零戦が向かっていった。「なんとかならんか」とみつめた。日頃、我が物顔で飛来するB29に一矢報いてほしかった。零戦は体当たりし、機体の破片がぱらぱらと宙に舞った。一機のB29がぐらぐら揺れながらゆっくりと東に落ちていった。「やった」という思いだった。B29は小長井村(現・諫早市小長井町)沖の有明海に墜落し、乗っていた11人全員が亡くなり、零戦の乗組員も死亡した。氏原さんは零戦の破片を拾いに行った。

 旧制諫早中(現・諫早高)の3年に進学すると学徒動員で諫早駅で働くようになった。はじめは掃除やホームの案内などだったが、すぐに男手が必要な仕事に回された。交通の分岐点にあたる諫早駅には貨物列車が多く、各方面に貨物を振り分ける仕事を担当した。「学生だからという甘えなんか通用しない。一人の労働者だった」

 45年8月9日も氏原さんは、学徒動員されていた諫早駅にいた。天気のいい日だった。貨車の入れ替え作業をしていた時、ものすごい光が差し込んだ。雷とも全く違う閃光(せんこう)。数分後、「でーん、どおおん」という聞いたことがないような音がした。すぐ近くで爆弾が落ちたような迫力だった。西の空には入道雲のようにもくもくと黒煙があがり、太陽を隠して薄暗くなった。ただの爆弾ではないと思った。「広島が全滅したという新型爆弾じゃなかか」と仲間たちと不安を募らせた。

 1時間ほどすると、「長崎は全滅した」とうわさが流れた。長崎行きの列車は止め、負傷者を運ぶ救援列車を運行するためにダイヤが変更された。警防団や婦人会などがリヤカーや担架を持って次々と集まってきた。

 長崎原爆戦災誌によると、最初の救援列車は午後3時ごろに諫早駅に到着した。「とにかくおそろしかった」。運ばれてきた人を見た時のことを、氏原さんはそう振り返る。

 長崎で被爆した負傷者を乗せた救援列車を諫早駅で迎えた氏原さんは「こげんなっても人間は生きとっとか」と、ぼうぜんとした。

 列車に入ると、「水を」「助け…

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