元関西経済連合会会長で、元住友金属工業(現新日鉄住金)社長の下妻博(しもづま・ひろし)さんが15日、川崎市内の病院で死去した。78歳だった。葬儀は近親者らで行い、後日、新日鉄住金主催の「お別れの会」を開く。喪主は妻克子(かつこ)さん。

 60年住友金属工業に入り、00年から社長、05年から会長を務めた。「会社の名を惜しめば世界で活躍できない」として、新日本製鉄との統合を決断。12年10月に新日鉄住金を誕生させた。

 07年からは関西経済連合会会長を4年間務め、関西広域連合や関西財界のシンクタンクの「アジア太平洋研究所」の発足などに尽力。関西、大阪(伊丹)の両空港の統合問題でも、国に先駆けた議論を主導した。

決断と行動の人

 「あれ、この話、まだ、しゃべっちゃいけなかったのか」。15日に亡くなった元住友金属工業(現新日鉄住金)社長の下妻博さんが関西経済連合会の会長を務めていたころ、記者会見やインタビューで、こういう発言を幾度聞いただろう。

 経営者、団体の代表ともなれば、発言も慎重になりがちだが、下妻さんはいつもこんな調子だった。明け透けで、よく笑った。関経連会長になったときも「本当はやりたくなかったんだよ」と本音ベースだった。

 ただ、豪快に見えても、しぐさを見ていると、気遣い、気配りを感じさせた。どんな場所でも、下妻さんから「よう」と声をかけられた。「会合の席で発言したそうにしていると、必ず目配せしてくれた」という経済人も少なくない。

 恐らく営業の一線を歩んできた経験からなのだろう。住金は薄板では後発だったが、若いころ、トヨタ自動車、マツダからの受注に成功した。それも「このお客さんのためなら、無理してでも尽くそうと思う関係を築いてきた」という一途な姿勢があったと思う。

 修羅場も踏んだ。社長時代、業績悪化から株価が額面(50円)を割り込むと、「新日本製鉄との提携交渉に入る」と1人で緊急会見に臨んだ。提携交渉の会見としては異例。当時、新日鉄は機関決定もしていない段階だったという。

 そして、最後の大仕事が2011年の新日鉄との合併交渉だった。粗鋼生産量で2倍の相手と組むことに「これからはグローバル競争の時代。会社の名前を惜しんでいれば生き残れない」と語っていた。決断すれば行動に移る。そのスピード感も印象的だった。

 最後にお会いしたのは、3月、那覇市内での経済人らの集まり。その時の立ち話も「よう」という声からだったと記憶している。(編集委員・多賀谷克彦